妖魔夜行 眠り姫は夢を見ない 友野詳/清松みゆき/西奥隆起 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)キラキラと輝《かがや》く |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|旅と渓谷社《タビケイ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  第一話  いつも見られている  友野  詳  第二話  敗れざる英雄     清松みゆき  第三話  眠り姫は夢を見ない  西奥 隆起   妖怪ファイル   あとがき           友野  詳 [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-1————————  ぱらぱらとこぼれ出る人間たちに代わって、わたしは電車の中に足を踏み入れました。  背後に自動ドアの閉まる音を聞きながら、わたしは車内を見渡します。  通勤時間をはずれているために、人の姿はあまりありません。そこかしこで空席が、わたしを待っています。  少し、安心します。田舎育ちのせいか、満員電車はどうもいけません。  軽い振動とともに電車が動きだし、わたしは、促されるように、適当な席に腰掛けます。車窓にちらりと目を向ければ、慣れ親しんだ風景が、いつもと同じに流れていきます。  小脇《こわき》に抱えていた漫画雑誌を、わたしは膝《ひざ》の上で開きます。  ふと気になって周囲を見渡してみますが、わたしに注意を向けようという人は、やはり、いないようです。  いつのころでしたかね。学生が電車の中で漫画を読むなどけしからん、といった投稿が新聞を賑《にぎ》わしていたのは。  少なくとも、わたしが学生を辞める前ではありました。  今や、KIOSKでうずたかく積み上げられ、売られているものをけしからんもありませんよね。  一つのタイトルを読み終わる頃、電車は次の駅に到着します。また、ぱらぱらと数人が降り、逆に、乗ってきます。  その中に、若いカップルがいました。男性が女性の肩を抱き、女性は男性の腰に腕を回しています。  二人は、向かいの扉近くまで歩くと、席に座ることなく、そのまま向かい合わせになりました。  女性の腕は男性の腰に、男性の手はといえば、肩ではなく、どんどん下がって、これはもうお尻《しり》。お互いに見つめ合い、二人きりの世界に浸っています。  そのままキスでもしかねない……あ、しちゃいましたね。  いやはや。  ああいうのは、「けしからん」と言っていいんじゃないでしょうか?  しばらく、わたしはぽかんと見ていましたが、目を漫画に戻しました。  見られて恥ずかしくないんでしょうか? 逆に、見ているこちらがたまらない思いをしています。  ああいうのが、最近の風潮なんですかねえ。とすれば、わたしの感覚は、かつて「電車で漫画」をけしからんと言った頭の固い大人の発想なんでしょうか。  そう思って、わたしは車内を見渡します。しかし、どうやら、皆も同じようです。抱き合うカップルを意識的に無視している雰囲気がありありとしています。  見られてもかまわないと思っているからやっていることが、逆に視線を遠ざけているのだとしたら、おもしろいことです。 「あたしのこと、好き?」「うん」「愛してる?」「うん」  いやはや。  本当に、この人たちは、人の目が気にならないようです。  ……でも。  人目をはばからず、愛を語り合えること。正しくは、うらやましいと言ったほうがいいかもしれません。  人の目を恐れるあまり、自分を見失ってしまうよりは。  愛をいずこかへ消し去ってしまうよりは。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第一話  いつも見られている  友野詳   0.終わりのはじまり   1.平凡な男の前に   2.あらわれた彼女は   3.逃げたい   4.逃げられない   5.誰《だれ》だ?   6.二つの顔   7.終わりの終わり [#改ページ]    0 終わりのはじまり  あの人だ。  間違《まちが》いない。  確かな根拠《こんきょ》は何もないけど、そうに決まってる。  あたしの直感が囁《ささや》いてるんだ。  強《し》いて証拠《しょうこ》を探《さが》すなら、匂《にお》い。それから印象。  はじめてすれちがった時に、かすかにただよってきた。  だから間違いない。あの人なのだ。  ならば、あたしは、この思いを貫《つらぬ》いてみせよう。  喪《うしな》ったもののために。今になって気がついた愛のために。最後まで認められなかった、気づいてあげられなかった愛のために。    1 平凡な男の前に 「ふわあああ」  長いミーティングがようやく終わった。  真山《まやま》新也《しんや》は、会議室から解放されると、大きく背伸《せの》びをした。 『さて、どうしようかな』  もう仕事は終わりだ。今日《きょう》は給料がふりこまれているはずだ。 『男としては、夜遊びに出かけるべきなんだ』  けれど、それもおっくうだった。飲み屋や風俗店の女の子にも、真山はつい気をつかってしまうほうだ。かえって肩《かた》がこる。 『だけど、ふつうの二十代の男ならこういう日には……、ああ、もう、それがどうしたっていうのだ。またかよ、ぼくは』  真山は首を左右に振《ふ》った。  以前からの癖《くせ》だ。  自分の行動について、他人がどう思うだろうと気にしてしまう。いつも誰《だれ》かに見られているように思えて、世間一般《せけんいっぱん》の『男』のイメージにあうふるまいをしているかと、気にしてしまう。  誰かの視線をいつも感じている。気のせいにすぎない。単なる妄想《もうそう》だと言い聞かせてはいるのだが。 『他人の目なんか気にすることはないって。自分のやりたいようにすればいいんだ。さて、と』  今夜の予定について考えていると、ぽんと背中を叩《たた》かれて、よろめいてしまった。 「また、今回も俺《おれ》だったな」  同僚《どうりょう》の大門《だいもん》伍朗《ごろう》だ。  真山は、あまりがっしりしたほうではない。はっきり言って、体格は華奢《きゃしゃ》だ。 「あ、ああ、そうだね、大門くん」  ふりかえって、真山は眼鏡《めがね》をずりあげた。やや垂《た》れた目が優しそうだとか、尖《とが》った顎《あご》が繊細《せんさい》そうだとか言われたこともある。どちらも一度だけだけれど。 「真山も、もうほんのちょっと頑張《がんば》ればいいんだよ。営業成績、月一位も夢《ゆめ》じゃないぜ。三回に一回は、おまえが二位なんだから」  大門が、白い歯を見せた。真山より、頭半分ほど背が高い。 「でも、三回のうち残りの二回は、三番手だよ。最下位だったこともある。年の半分以上も一位をとってる、きみみたいにはいかない」  真山は、こわばった笑いを浮《う》かべた。大門は、優越感《ゆうえつかん》をくすぐられたのか、余裕《よゆう》のある表情だ。彼らは、中堅《ちゅうけん》どころの自動車ディーラーの営業マンだった。この武蔵野《むさしの》営業所では、たった二人の同期でもある。  今日は月末。この日の営業成績を発表して、ミーティングがある日だ。トップが多い者、いっもどりにいる者、どちらもそれなりに目立つけれど、万年三位なんてのは一番地味だ。 「どうだ、今夜、飲んでいかないか?」  大門が、今度は柔《やわ》らかく、肩に手を載《の》せた。 「いいのか? きみのことだから、何か予定があるんじゃないか?」  真山は、同僚に遠慮《えんりょ》したわけではない。つきあいが面倒《めんどう》だっただけだ。悪い男ではないが、やたらと兄貴《あにき》ぶって説教するところがある。そこが嫌《いや》で断った、というわけでもないが。 「まあな、毎日毎夜、お接待やらおデェトやら、色々と詰《つ》まってるけどよ」 「じゃあ、悪いよ」  真山は、小さく腰《こし》をひねった。肩に載ったままだった大門の手がはずれる。  その手を、一瞬《いっしゅん》まじまじと見つめて、大門は、にかっと笑った。真山が、そこいらの一般的な女の子であれば、なんでも許してしまいそうになるような、魅力的《みりょくてき》な笑顔だ。 「お前って、ほんと線が細いよな。見た目はそうでもないのに、触《さわ》ると女の子みたいに華奢《きゃしゃ》だ」 「ほっといてくれないか」  ことさらに不機嫌《ふきげん》な声をあげて、真山は歩きだした。これで、大門をふりきれればと思ったのだが、相手の方が一枚|上手《うわて》だ。 「おう、悪い悪い。じゃあ、詫《わ》びに今日の一次会だけは俺《おれ》のおごりだ」  大門のごつい手が、ぐるりと真山の首に巻きついてかかえこむ。どうやら逃《に》げられないと、真山はこっそりため息をついた。 「いい娘《こ》のいる店、見つけたんだ。今日だけ特別にお前にその娘《こ》ゆずってやるよ」  ほんの少し顔を歪《ゆが》めてしまい、真山はあわててその表情を消した。 『男っていうのは、こういう時は喜ばないといけないんだよな』  真山は、笑いを浮かべようとした。 「相変わらずねぇ、先輩《せんぱい》たち」  無遠慮な声をかけてきたのは、丸顔の若い娘《むすめ》。経理の毛利《もうり》郁恵《いくえ》だ。彼らより一年|後輩《こうはい》にあたる。人なつっこくて、敬語はめったに使わない。  真山は、どことなくこの娘が苦手《にがて》だった。彼女が無意識にか意識的にかただよわせている『女』の雰囲気《ふんいき》が鼻につくからかもしれない。 「千恵《ちえ》先輩がいたら、また言われるわよ。やっぱり、ホモなんじゃないのって」 「馬鹿《ばか》なこと言うな。だっ、誰《だれ》が!」  真山は、大門の手を乱暴にふりはらった。大門が苦笑《にがわら》いする。 「よせよ……、むきになるなって。ますます怪《あや》しく思われちゃうぞ?」 「あ……ああ、ごめん」  真山は、表情を歪《ゆが》めた。  それをどう解釈《かいしゃく》したのか、大門がぽりぽりと頬《ほお》を掻《か》いた。郁恵も暗い顔になる。 「ううん。あたしこそ。やっぱり千恵先輩みたいにはいかないや」  郁恵は、口もとだけで笑いながら、目をうるませていた。経理の先輩である磯部《いそべ》千恵が突然《とつぜん》亡《な》くなって、一ヵ月になる。 「あたりまえだ、馬鹿《ばか》。お前だけじゃ、いつもの切り返しもできねぇだろ、先輩こそレズなんじゃないんですか、ってよ」  憎《にく》まれ口を叩《たた》きつつ、大門は真山のようすをうかがった。  大門にとっても郁恵にとっても、千恵は親しい友人だった。真山たちの二年先輩だが、年齢《ねんれい》は同じ。よく、飲みにつきあわされた。酒が好きで、姉御肌《あねごはだ》。真山は特によく誘《さそ》われていた。  だから大門も気を遣《つか》ったのだろう。  真山は、気弱そうな笑《え》みを返した。実際のところは、千恵のほうはともかく、真山は友人以上の感情は持っていなかったのだが。 「その、ごめん。いやなこと思い出させて」  思い出してしまったのは、郁恵も同じことだろう。哀《かな》しみと怯《おび》えが、複雑にまじりあった口調になっている。同情をあらわそうとしているが、彼女にもその余裕《よゆう》はあまりないようすだ。 「いいから、とっとと帰れ。もう終業時間だぞ。お前らが残業しても会社は喜ばないんだからな」  乱暴だが優しさも含《ふく》んだ口調で、大門が言う。 「飲みにいくの? あたしは? あたしは?」  郁恵は、その大門ではなく、真山のほうに視線を向けて言った。これが、彼女の口癖《くちぐせ》だ。『お昼食べにいくの? あたしは? あたしは?』、『スキーに行くんだって? あたしは? あたしは?』といった調子。 「るせぇな、そう毎度毎度……」  言いかけた大門が、途中《とちゅう》で言葉を切って真山の表情をうかがった。 『どうすればいいんだろうな、男としては』  彼は迷《まよ》った。郁恵は傷つくかもしれない。だが、普通《ふつう》の男なら、夜遊びに女の子は不必要だと思うだろうと、真山は判断した。 「悪いけど、今日は、ね。男同士の話があるんだ。また、今度誘うからさ」  拝む真似《まね》をする。 「ホントに? ホントにさそってよね? でないと、ホントにホモなんだって言いふらす」  じっとりした目で睨《にら》んで、郁恵が思い切りよく、くるっと身をひるがえす。真山は、彼女の台詞《せりふ》を腹立たしく思っていたが、顔には出さなかった。 『ただの冗談《じょうだん》なんだから、怒《おこ》るのはみっともない』  そう自分に言い聞かせる。  去《さ》っていく、形のいいヒップを、複雑な表情で見つめていた大門が、ちらりと真山を見た。 「あのな、お前らってさ……あ、いいや」  真山は、大門が何を聞こうとしたのか、まるで悟《さと》っていなかった。    2 あらわれた彼女は  彼らは中央線で新宿へ出た。電車の中では、郁恵も千恵も話題には出なかった。  ちなみに、大門は中野、真山は高円寺だから、定期でちょっと乗り越《こ》すことになる。真山は、近くですませたかったのだが、大門が見つけたいい店というのが新宿だったのだ。  まず連れていかれたのは、安めの居酒屋《いざかや》だ。慢性不況《まんせいふきょう》の昨今、営業成績一位の大門とて、たいした経費も認めてもらえないし、給料だって厳しい。  彼らが入社したのは、すでにバブルも終わってからだから、そんなものだと馴《な》れていたが、先輩《せんぱい》連中は飲むとよくぼやく。  隣《となり》で飲んでいたのが、似たような年頃《としごろ》の三人組のOLで、大門はさっそく声をかけていたが、結局、店を出る時に別れた。 「お前さぁ、もうちょっと愛想《あいそ》よくできないか? 端《はし》の子、わりとお前を気に入ってたみたいだぞ」 「だ、だって、店に予約入れてあるんだろ?」  この居酒屋に入る前に、大門が携帯電話《けいたいでんわ》で『いい娘《こ》がいる』店とやらに連絡《れんらく》しているのを、真山は聞いていた。 「ばかやろ、あんなものはお前……やれやれ、まあ、口説《くど》く手間が面倒臭《めんどうくさ》いってのもわからんじゃないけどさ」  苦笑を浮《う》かべて、大門が歩き出す。  真山は後についていった。先を行く同僚《どうりょう》が見ていない時には、憂鬱《ゆううつ》な表情を浮かべて。 『面倒臭いわけじゃない……恐《こわ》いの、かな』  失敗をするのが。あるいは、失敗したところを見られるのが。女性の目は、男が見ないところを見る。何かを感じとるかもしれない。 『何かって、なんだ? まったく、ぼくは自意識|過剰《かじょう》だよ。プライドだけ高いんだからな』  いつも自分を見ている目は、たぶん自分自身なのだろうと思う。誰からも馬鹿にされちゃいけない。弱味を見せてはいけないと囁《ささや》いてくる。  背後からの視線を感じると、後頭部が熱くなる。 「おい、こっちだぜ?」  考えているうちに、遅《おく》れていた。大門がふりかえっている。真山の歩調は、小走りになっていた。友人を待たせて悪いと思ったのではない。ともすれば、引き返したくなる自分の心を認めないために、そうしたのだ。  そして、翌朝。真山は、ひどい頭痛とともに目覚《めざ》めた。あの店を出てから、また飲みにゆき、カラオケをはしごして、帰ったのは何時だったか。 『大門のやつ……底なしだからなぁ。素直《すなお》に、もうだめだって言えはよかったかな』  にぶい後悔《こうかい》が、脈動する頭痛とともに強くなったり弱くなったりする。 『休もうかな、会社……いや、こんなことくらいでつぶれちゃ、男として恥《は》ずかしい』  とにかく水を一杯《いっぱい》。そう思って、真山は起き上がった。まだ目が開き切っていない。 「はい、どうぞ」  鈴《すず》をころがすような声とともに、ひんやりしたコップの感触《かんしょく》が手に押《お》しこまれた。 「やあ、ありがと、ういっぷ」  礼を言って水を飲み、喉《のど》を鳴らして……それからようやく、真山は気づいた。 『誰《だれ》だ、今の!』  目を開いた。ふりむく。その動作の途中で、ここは自分のアパートだとわかった。忙《せわ》しく記憶《きおく》を探《さぐ》る。ふりむきはじめるまでには、自分が、酔《よ》って女の子をここにつれこむようなことをしたのかどうか、まるっきり思い出せなかった。  ふりむき終わるまでにかかったのは、〇・五秒。そのあいだに、記憶が甦《よみがえ》ってきた。  アパートの扉《とびら》の前に、壷《つぼ》が置いてあったのだ。異国風に思えたが、そういった方面の教養がない真山には、本当の産地も、どのくらいの価値があるものかもわからなかった。酔いにまかせて、部屋に運びこんだのだ。  けれど、今の真山は、あの壷はアラビアのものだったのだと確信していた。 『いや、違《ちが》う』  手の中からコップがすべり落ちてゆくのも気づかず、真山は声に出して自分に言い聞かせていた。 「夢《ゆめ》だ。壷を拾ったのも、今も、きっと夢を見てるんだ」  それも、悪夢に違いない。 「あら、失礼ね。あたしは夢なんかじゃないわよ、旦那《だんな》さま。そりゃあ、夢みたいな状況《じょうきょう》だって信じられないのも無理はないけど」  目の前の美女は言った。  真山は、自分の胸が、大きくどきりと鳴ったように思った。  エキゾチックな雰囲気《ふんいき》の、とびきりの美人だ。東洋と西洋の血がまじりあった顔だち。小麦色の肌《はだ》。豊かな乳房《ちぶさ》が作る深い谷間。へそも見えている露出度《ろしゅつど》の高い、ステロタイプなアラブのハーレム風の衣裳《いしょう》。  もしも、ある一点がなければ、コスプレパブの女の子を、店の衣裳のままで連れこんだんだとでも勘違《かんちが》いしたかもしれない。  耳が尖《とが》っているのも、瞳《ひとみ》が縦長なのも、メーキャップだと自分に言い聞かせられたかもしれない。  けれど、どうにも説明のつかないものを、真山は見てしまっていた。  下半身がない。正確には、腰《こし》から下がもや状になって、壷《つぼ》の口へと消えていたのだ。  それさえなければ、恋《こい》するべきだと感じるほどの美女なのに。 「き、きみ……いや、違う。夢に話しかけたりなんかしちゃいけない」  真山はくるりと背を向けた。機械的な動作で立ち上がる。 「あたしはアシャーキーよ。ジンニヤーのアシャーキー。ジンニヤーは知ってる? アラビアの砂漠《さばく》にいる精霊《せいれい》。ほら、アラビアン・ナイトとかに出てくるでしょ? ランプの精霊とか。あたしの故郷って、砂ばっかりでなぁんにもないの。退屈《たいくつ》だから、魔法《まほう》でこの国にやってきたのよ」  美女がべらべらとまくしたてる。大きな目、厚めのくちびる。異国美の容姿には不似合いな、流暢《りゅうちょう》な日本語だ。 『なんだって? 幻覚《げんかく》だ。幻聴《げんちょう》だ。こんなの……認めちゃいけない。ぼくは変な人じゃない。変な人になんかなっちゃいけないんだ』  実在しないものについて考えてはいけない。  アシャーキーと名乗った美女の言葉に耳を貸さず、真山は着替《きが》えはじめた。ゆうべから着たままだったワイシャツを頭からひっこ抜《ぬ》き、ズボンをおろしたところで一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。 『幻《まぼろし》なんて無視するんだ。幻なんて』  トランクスも取り替えなければ。無理やりに思いこんで、下におろす。 「いやぁぁん。旦那《だんな》さまってばぁ。そりゃ、あたしたちって、そういう仲だけど、親しき仲にも礼儀《れいぎ》ありよ」  くすくす笑って、アシャーキーは言った。 「ど、どういう仲だって」  思わず振《ふ》り向きかけて、自分がいかに間抜《まぬ》けな格好であるかに気づいて、彼はあわてて、パンツをひきずりあげた。  頭の芯《しん》から、後頭部にかけてが、なんだか熱くなってくるようだった。  怒《いか》りだ。恥《はじ》をかかされた。真山を男として認めていないかのようにふるまった。子供か、それとも……女のように。  真山の心の奥《おく》から、理不尽《りふじん》な怒りが湧《わ》いてくる。 『こいつ、こいつ、こいつ』  この女は、突然《とつぜん》の闖入者《ちんにゅうしゃ》。女は平和を乱す者。女は……。 『駄目《だめ》だ、いけない。なぜいけないこいつはそれでもだめだそういまはまずいいまは』  アシャーキーに背を向け、つりさげた背広をかきわけて、真山は洋服ダンスの奥に額を押《お》しつけた。ぶるぶる震《ふる》える。彼の奥で、何かが暴れている。それを放してはいけないと強く思う。 『なんでだ? なんで、だめなんだ?』  怒りを押し留《とど》めるために、理由を考える。  アシャーキーに向かって怒るというのは、彼女の存在を認めることになってしまう。  そうだ。だからいけない。あんなものはない。超《ちょう》自然の魔女《まじょ》などいてはいけない。  そんな存在のことは忘れているべきなのだ。  壷《つぼ》の中から出てきた魔女? しかも、一方的にこちらに惚《ほ》れている? そんな都合《つごう》のいい、まるでマンガみたいな出来事《できごと》があるものか。そんなことは、妄想《もうそう》の中でしかない。 『妄想……男に都合のいい女。妄想……男なら欲しがる……そうだ、男ならこんな妄想を抱《いだ》いてたっておかしくない。ぼくは異常じゃない。わかってくれよ、おかしくないんだ』  誰《だれ》かに向かって言《い》い訳《わけ》するように、真山は脳裏で言葉をくりかえした。  ずっと動かない真山を、どう解釈《かいしゃく》したのか。 「どういう仲だか、教えて欲しい?」  背中にむにゅりと柔《やわ》らかいものが押しつけられた。かなりのボリュームだ。 『喜ばなきゃ。喜ぶべきなんだ』  けれど、真山は、背中にミミズでもほうりこまれたような、嫌《いや》な気分になっている自分を否定できなかった。ふにゃりとした感触《かんしょく》が嫌だった。  それはきっと、この娘が妄想だからだと、真山は言い聞かせた。人間ではないから恐《こわ》いのだ、と。 「うふふふ、もうゆうべ、あたしたちは他人じゃなくなったのヨ」  背中のミミズが、氷の冷たさを備えた。それとは逆に、後頭部がカッと熱い。 『この女とぼくが、した……っていうのか? そんなおぞまし……いや、とんでもない』 「ぼ、ぼ、ぼくたちは昨夜が初対面だぞ。それなのに、そ、そんな」  存在を認めてはいけない。そう思うのに、真山はつい口走っていた。 「あなたは知らないでしょうけど、あたしたち、初対面じゃないのヨ。あたし、あなたを慕《した》ってここにやってきたんだもの」  アシャーキーの言葉は、どこかぎこちなかった。流暢《りゅうちょう》なようだが、やはり日本語に馴《な》れていないのか、それとも何か他《ほか》に理由があるのか。もっとも、ほっぺたを、金色に染まった長い爪《つめ》のついた指でぐりぐりされている真山には、そんなことに気づく余裕《よゆう》もなかったけれど。 「はは……ははは……」  真山は、うつろな笑いを浮《う》かべた。 「いいや、夢だ。ぼくは悪い夢を見てるんだ……そうだ、そうに違いない」  アシャーキーに背を向け、虚空《こくう》に向かって呟く。  後ろから抱《だ》きついているアシャーキーは甘《あま》い口調とはうらはらの、異様に冷たく鋭《するど》い瞳でそんな彼を見つめていた。小さくて可愛《かわい》い鼻の頭には、細《こま》かなしわが寄《よ》っている。何か、臭《くさ》いものでも嗅《か》いでいるかのように。    3 逃《に》げたい  アパートの部屋の前で、真山は、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。  閉じられた扉《とびら》の向こうからは、刺激的《しげきてき》な匂《にお》いがただよってくる。真山が生まれてこのかた、食べたことのない香辛料《こうしんりょう》の香《かお》りだ。  いや、それも三目前までのこと。昨日《きのう》も一昨日《おととい》も、その前の日も。アシャーキーがあらわれてから、毎日、とてつもない味付けの料理を食べさせられている。  今夜もかと思うと、げんなりした。だが、断るわけにはいかない。  はじめてあらわれた朝、どうしてもずっと一緒《いっしょ》にいるんだと言ったアシャーキーに向かって、『ぼくが旦那《だんな》さまだというのなら、料理|洗濯《せんたく》がきみの役目だろ』と、言いくるめたのである。自称フェミニストの郁恵あたりには聞かせられない台詞《せりふ》だが、このさい緊急避難《きんきゅうひなん》だ。  それに、真山にとっては、けっこう本音《ほんね》だったかもしれない。  女は家を守り、男は外で働く。そういう古臭《ふるくさ》い価値観が、真山には染《し》みついていた。そのくせ、それを嫌《きら》ってもいる。怒《いか》りに近いほどに嫌悪《けんお》を感じている。  現代の男性なら、女性の人格を認めねばならない。けれど、それは理屈《りくつ》で、真山の感情は女という性を蔑視《べっし》していた。  他にも、真山は矛盾《むじゅん》を抱《かか》えこんでいる。男であれば女の子が好きなはずだという固定観念と、実際にはどうしても感じてしまう生理的嫌悪感と。  この三日、男性の大半なら夢に見るような生活をしてきたのだ。  アシャーキーは、片時も真山と離《はな》れたがらなかった。最初の朝の着替《きが》えの時こそ照れたが、後はつねにべたべたはりついてきた。シャワーを浴びている時にも、背中を流そうと入ってきた。ベッドにも、もぐりこもうとする。はては、トイレに行く時までついてこようとした。何かあれば胸を押《お》しつけてくるし、体に触《ふ》れてくる。  そのたびに、汗《あせ》だくになって説得し、なだめすかし、脅《おど》して否定した。  据《す》え膳《ぜん》喰《く》わぬはなんとやら、と言う。これが普通《ふつう》の女性であったとしたら、自分だってこうも拒否《きょひ》はしないはずだ。そう、真山は考えていた。  世話といえば、死んだ千恵や、郁恵も真山の世話を焼こうとしていた、しようとする。彼女たちなら受け入れても……。 『嘘《うそ》をつけ』  彼女たちの申し出も、なんだかんだと理屈をつけて断っていた。千恵には、かなりきつい言葉を使ってしまったことがある。だが、アシャーキーに向かっては、それができないでいた。  理由は……。 『怖《こわ》がっているからだ』  真山は、自分にそう言った。情《なさ》けない話だ。自分にむらむら腹が立ってくる。 『けど、しょうがないじゃないか。それに、もしかしたら、あれは実在しないんだ。実在するとしても、見かけ通り、言ってる通りの存在だって保証はないんだ』  いったいなんなのだ、あれは。  壷《つぼ》の中から出てきた魔女《まじょ》。そんなもの、あっさり受け入れられるはずがない。  だから、扉を開ける気がしない。  けれど、夜は早く帰って、ちゃんと一緒に食事をすると約束させられている。今朝《けさ》も、どうしても会社についてくるというアシャーキーを、きみの食事が楽しみだとかなんだとかなだめすかして出てきたのだ。  もしも帰らなければ、彼女は何をするだろう。魔女には、何ができるのだろう。彼女の怒りは、どう表現されるのだろう。 「あら、真山さん」  階段から、五十がらみの太めの女性があがってきていた。管理人夫人の斉藤《さいとう》美津《みつ》だ。 『まずい。同居人がばれたら……』  契約違反《けいやくいはん》で追い出されても文句《もんく》は言えない。夕食の支度《したく》をしている女がいるくらいなら、どうということはない。だが、この三日間、アシャーキーはずっとこのアパートにいるのだ。誰《だれ》かが気がついても当然だろう。 『どうしよう。変なやつだと思われるだろうか。男なら仕方ないと納得《なっとく》してもらえればいいんだけど。もしも、もしも、何か文句を言われたら……どうしたらいいんだ、どうしたら、どうしたら』  真山は動けなくなってしまった。考えがまとまらない。そういう時は、どうしてかいつも後頭部に熱さを感じる。  真山が、目を閉じてしまおうとした時。 「どうも、こんばんは。今お帰り? ねえ、たまには和風の家庭料理とかも食べたいんじゃない? よければ、今度、うちに食べにいらっしゃいな。ほら、御存知《ごぞんじ》でしょ。うちは、お父さんと二人きりだから、大勢《おおぜい》だと嬉《うれ》しいのよ。なんだったら、作り方をお教えしてもいいし。あら、ごめんなさい。あたしだけ、べらべらしゃべっちゃって……。あ、ちょっと通してくださいね」 「あ、はい。どうも」  考えすぎだった。  彼女は、二つ隣《となり》の部屋に、預かった宅配便の荷物を届けに来ただけだったのだ。  顔を出したその部屋の住人は、斉藤美津と何か話している。若い女性だ。確か、どこかの塾《じゅく》で講師をやっているとかいう話だった。 「あら、そう悪いわね。じゃあ、ちょっとだけ御馳走《ごちそう》に……」  お茶でもと言われて、斉藤美津があがりこむのを、真山はぼんやりとながめていた。  管理人を招いた彼女が、真山に気づいて会釈《えしゃく》してきた。あわてて彼も挨拶《あいさつ》を返す。彼女が顔をひっこめる。  真山は、ほうっと息を吐《は》き、そして吸いこんだ。あらためて、彼の鼻孔《びこう》を香辛料《こうしんりょう》の匂《にお》いがくすぐる。  ……どうして、誰も気がつかないのだろう。  この匂いを、斉藤美津は感じなかったのか。昼間だって、アシャーキーの姿を誰も見ていないのだろうか。壷《つぼ》の中にずうっと入っているわけではないはずだ。帰ると部屋は掃除《そうじ》されているし、汚《よご》れ物は洗濯《せんたく》されている。  動きまわっているのに、誰も気づかないなんていうことがあるだろうか。 『もちろん、ありえるさ』  皮肉《ひにく》っぽく、彼は自分を嘲《あざけ》った。 『なにせ、この世のものじゃないんだから』  中断された思考が戻《もど》ってゆく。アラビアの精霊《せいれい》。壷から出てきた魔女。マンガやTVドラマじゃあるまいし。 『誰も気がつかない。見えない。そうとも、当たり前だ。全部、ぼくの妄想《もうそう》なんだから』  掃除も洗濯も自分でやった。無意識のうちに。そして、アシャーキーの仕業《しわざ》だと思いこんだ。この匂いも、幻《まぼろし》にすぎないのかもしれない。  自分にしか、あの魔女の姿は見えていないのかもしれない。 『だけど、そうだとしたら、どうしてぼくはそんな幻覚《げんかく》を見てしまうんだ……? まさか、狂《くる》ってしまったとでもいうのか』  扉《とびら》のノブをじっと見つめながら、真山はひどい怯《おび》えにとらわれていた。どうして、『自分は普通《ふつう》ではない』と考えることが、こんなに恐《おそ》ろしいのか、おのれ自身でも理解できない。  背後から視線を感じた。だが、誰もいないことはわかっている。  彼は、自分のスーツのポケットを探《さぐ》ってみた。薄《うす》い財布。百円ライター、三本しか残っていない煙草《たばこ》、アイロンのあたったハンカチ——もちろんかけたのはアシャーキーだ——、街角でもらったテレクラのティッシュ、くしゃくしゃのメモ。そんなものばかりだ。 『幻覚剤《げんかくざい》なんか、ぼくは持ってない。確かめるまでもないじゃないか。まさか、やってることすら忘れるなんて……、そんな馬鹿《ばか》なことが』  外ではなくて、自分の内側に原因があるはずだと、真山は思った。女性が苦手だからだ。あのぶよっとした肉体が、生理的な嫌悪感《けんおかん》をそそる。自分は男なのだから、女性に性的な魅力《みりょく》を感じるのが当然なのに、どうも馴染《なじ》めない。なんというのか、恐《こわ》い。彼女たちと接していると、何かが見抜《みぬ》かれそうだ。  そんな矛盾《むじゅん》した思いが、あの幻覚を生んだのかもしれない。 『あいつが幻だとして、どうすればいい?』  言い聞かせたところで、消えやしない。  それに、もしも。 『万が一、本物だったなら?』  彼女は壷《つぼ》からあらわれた。昨日は、彼女が指さしたら灰皿《はいざら》がふわふわ飛んできた。一昨日は、むにゅむにゅと口の中で呪文《じゅもん》らしいものを唱えたら、空《から》だったコップに水が湧《わ》き出した。  魔法《まほう》なんて、実在するはずがない。でも、もしも、魔女《まじょ》が本当にいるのだとしたら。  そういえば、自分がこの数日食べてきたものを、彼女はどこから取り出したのだろう。  まさか、買い物に出かけたのだろうか。胸もなかば見えた、へそも丸出しのあの格好で? そうでないなら、どこから。  真山は、口もとを押《お》さえた。急に吐き気がこみあげてきたのだ。  彼は、よろめく足取りで扉の前から離《はな》れた。恐怖《きょうふ》がこみあげてくる。  あれは、自分が作ったものか。それとも魔女の料理なのか。魔女は実在するのか。あるいは自分が狂っているのか。  ただ、無性《むしょう》に逃《に》げたかった。『男としてみっともない』そう囁《ささや》くはずの、監視《かんし》している自分も今はいない。それどころか、自分の心の中の視線は、自分ではなくて、背後を睨《にら》んでいるように思えた。  魔女を警戒《けいかい》しつつ、逃げようとした、その瞬間《しゅんかん》。 「旦那《だんな》さま、どこ行くの?」  いきなり、目の前にぬっと顔がつきだされた。壁《かべ》を突《つ》き抜《ぬ》けてきたのだ。  アシャーキーの表情は、とても険《けわ》しく見えた。  かろうじて悲鳴《ひめい》は押さえた。後頭部が熱い。 『注目されちゃいけない。こいつにも』  内側から自分が囁く。  平然とした顔をとりつくろおうとした。自分でも驚《おどろ》いたことに、できた。  アシャーキーも、あどけなく笑っているようだ。さっき、あれほどこわばって見えたのは、やましさのせいだったろうか。 「煙草……煙草を買いにいくんだ」  まだ握《にぎ》ったままだった箱《はこ》を、あわてて握りつぶし、ポケットに押しこんだ。 「あら、それならあたしが」  彼女が、指を額の真《ま》ん中《なか》にあてた。魔法を使う時の仕草《しぐさ》だと、この数日で知っている。  真山は、あわててその手首を掴《つか》もうとした。アシャーキーは、反射的に真山の手をかわした。抱《だ》きついてくる時は、かわせるくらいにゆっくりなのに、今はずいぶん素早かった。  真山には、それに気づく余裕《よゆう》はない。 「いいから。他にも買うものあるから。きみは料理しておいてよ」  嫌悪感《けんおかん》を抑《おさ》えて、アシャーキーに触れ、彼女を壁の内側に押しこもうとした。こんなところを誰かに見られでもしたら大変だ。  自分は平凡《へいぼん》な男なのに。こんな超常的《ちょうじょうてき》なものとかかわりあってはいけない。  すべすべしたアシャーキーの肌《はだ》。嫌悪、それとも嫉妬《しっと》。 「ね、ねぇ。きみはどうして、ぼくなんか」  ふと、そんな疑問が口からすべり出ていた。  余計なことを言ってはいけないと、いつもの視線が囁いているのに。  アシャーキーは、一瞬困った表情になった。けれど、すぐにどんな男でも魅惑《みわく》されてしまいそうな笑《え》みを浮かべて、こう言った。 「あなただからよ。あなたがいいの。他の誰でもない、あなた」  柔《やわ》らかな手が、頬《ほお》を撫《な》でる。 「もうすぐ夕食ができるの。早く帰ってネ」  壁の向こうに、魔女が消える。  真山は答えなかった。足早に階段をおりる。アシャーキーの言葉の余韻《よいん》をふりきるように。彼女の言葉にあった、とりつくろうような響《ひび》きには気づかずに。  真山は、そのまま駅に向かった。やってきた電車に、行く先も確かめずに乗る。  空《あ》いていた椅子《いす》に腰《こし》をおろし、ほうと息を……。 「あれ、真山さん?」  声をかけられた時は、飛びあがりそうになった。昼間も会った顔が、つり皮を手にしていた。 「なんだ、郁恵ちゃんか」  逃《に》げ出そうかとも思った。だが、後頭部が熱くなった。視線だ。感じる。お前は男なのだから、と囁いている。でも湧きあがる嫌悪。それとも——恐怖。 「どしたの、こんな時間に?」  どう答えればいいのか。迷って、言葉が出ない。そのうちに、沈黙《ちんもく》をどう解釈《かいしゃく》したのか、郁恵は、彼女らしくないもじもじしたようすで言った。 「もし時間あるなら……言ってたじゃない、今度|誘《さそ》ってくれるって」  男なら……こういう場合は断ってはいけないのだろうな。  真山は、うなずいていた。それに、彼女といれば部屋に帰らなくてもいい。  アシャーキーと、この媚《こ》びてくる娘《むすめ》と。  どちらが、本当に嫌《いや》なのか。  新宿でおりて、食事をして、酒を飲み、騒《さわ》がしい街なみを歩く。  自分の腕《うで》に絡《から》んでくる柔《やわ》らかい腕の感触《かんしょく》を、無視しようと努力しながら、真山は後頭部が熱くうずくのを感じていた。 「ねえ、真山さん。千恵先輩がいなくなったから言うんじゃないけど……」    4 逃げられない 「アシャーキーが、別のところにころがりこんだらしいわ」  と、霧香《きりか》が言った。落ち着いた雰囲気《ふんいき》の、日本的な美人である。  原宿《はらじゅく》の裏通りにある、小さな喫茶店《きっさてん》だった。霧香の占《うらな》いの店 <ミラーメイズ> から歩いて五分ばかり。いつも大音量のジャズナンバーがかかっていて、テーブルが小さく、盗み聞きされにくい。 「一月《ひとつき》前まで同居してたのは確か……」  霧香の前に座《すわ》っている、妖艶《ようえん》な美女、未亜子《みあこ》が、形のいい眉《まゆ》をぎゅっと寄せた。 「その相手は死んだわ」  霧香の声に含《ふく》まれた不穏《ふおん》な響きに、未亜子の切れ長の瞳《め》は、ますます剣呑《けんのん》な光を帯びた。 「ええ、殺されたの」  霧香がうなずく。 「あの子のことだから……」 「でしょうね」  第三者にはなんのことだかさっぱりわからないやりとりだが、二人には通じているらしい。別に、言葉以外のものでコミュニケートしているわけではない。数百年のつきあいの友人同士だからだ。  そう。数百年。  彼女らは人間ではない。  さまざまな想《おも》い、強烈《きょうれつ》な感情、信じられた噂話《うわさばなし》、迷信、願い、そういったものから生まれた、通常ならざる生命体。  妖怪《ようかい》と呼ばれる生き物なのだ。  霧香は、長年使われた鏡に命が宿った雲外鏡《うんがいきょう》。未亜子は、下半身が蛇体の濡《ぬ》れ女だ。  どちらも、東京に居をかまえる妖怪たちの中では、一、二をあらそう実力者である。  かつては自然の中で人間と離《はな》れて暮《く》らしていた妖怪たちだが、増え続ける人間の圧迫《あっぱく》で、決断せざるを得なかった。もはや隠《かく》れる場所は、人と人のあいだにしかないのだと。  都会の闇《やみ》にひそむようになった妖怪たちは、互《たが》いに助けあうためのネットワークを形づくった。いくつものネットは、それぞれの拠点《きょてん》となる場所の名を冠《かん》して呼ばれる。  霧香と未亜子は、東京でも最大規模のネットの一つ、 <うさぎの穴> に属していた。本拠《ほんきょ》は、渋谷《しぶや》にあるバーである。  ネットワークの妖怪たちは、人間との共存を目指《めざ》している。妖怪たちの中には、自分の生まれに囚《とら》われ、人を傷つけてしまう者たちもいる。超常能力を持った妖怪に対抗できるのは、妖怪だけだ。だから、ネットワークの妖怪たちは、はぐれた仲間がおかしな事件を起こさないかどうか、いつも注意している。 「あなたは、殺された人のほうを調べておいてくれないかしら。アシャーキーが隠していたんでしょうね、私たちの耳に入らなかったということは。なら、ただの殺人ではない可能性もある」  霧香に映《うつ》らないものはない、というのが東京の妖怪たちでの評判だ。彼女は、かなり機嫌《きげん》をそこねている。長いつきあいの未亜子でなければ、まず見分けはつかないだろうが。 「わかった。八環《やたまき》くんに手伝ってもらえば、なんとかなると思うわ」  未亜子は、血のように赤い紅茶《こうちゃ》を一息で飲《の》み干《ほ》すと、優雅《ゆうが》な仕草《しぐさ》で立ちあがった。霧香が、コーヒーカップを持ちあげる動作を止めて、言った。 「私はアシャーキーを捜《さが》すわ。あの娘《こ》も思いこむと一途《いちず》で、まわりが見えなくなるから。何かしでかさないうちに見つけないとね」 「お願いするわ」  未亜子は財布から小銭を取り出して、テーブルに置いた。そして、ぽつりと呟《つぶや》いた。 「手後れにならなければいいけど……」  霧香が、こわばった表情でうなずいた。 「……郁恵ちゃんが? 死んだ?」  朝、出勤してきた真山を待っていたのは、そんなニュースだった。知らせてくれた大門は、目を真《ま》っ赤《か》に腫《は》らしていた。  泣いていたのだろう。  その表情を見て、真山は胸の奥をぎりっと掴まれたような気分になった。 「けど、なんで、どうして? 昨夜はちっともそんな……まさか、またなのか?」  言葉がさっぱり出てこない。  大門に気を遣《つか》ったのではなく、昨夜の自分の行為《こうい》そのものに嫌悪《けんお》を覚えたからだ。  それが、他人に知られることにも。  昨日《きのう》の夜、別れたのは十二時ごろだ。自宅までは、送っていかなかった。  そうするべきだったのだろうか。けれど、両親と同居しているはずでもあったし。何より、あの出来事《できごと》の後で、気まずかった。 『男のひとって疲《つか》れすぎたり、酔《よ》ってたりすると、よくこうなるよ。しょうがないよ』  ラブホテルのベッドの上で言われて、かえって腹が立った。誘《さそ》ったのはお前のくせに、そう思った。そもそも、真山はそんなことをしたくはなかったのだ。したかったと思うべきなのはわかっている。けれど。  郁恵だって自分を好きだったわけじゃないに決まっている。単なる肉欲だ。女なんて、自分の都合《つごう》だけなのだ。  あ、いや。そんなに否定的にならなくたって……ずきんと後頭部が痛む。自分に疑問を持とうとすると、必ずこれだ。  男は、おのれに自信を持て。まわりの視線をつねに意識して悠然《ゆうぜん》と。 『しなければしなければ、そうしなければ』  言《い》い訳《わけ》する自分が嫌いだ。したくなかったなら、どうして行った。断れば、『男らしくない』と見られるかもしれないと思ったからか。まわりを行き過ぎる通行人たちの視線を気にして。子供や、女、でないと証明するために、うなずいて。  いや、いや、そんなことはどうでもいい。あの時に、郁恵に死の予兆《よちょう》などあっただろうか。  混乱し、絶句している真山に、見慣《みな》れない男が声をかけてきた。 「すいませんね、ええと、そちらの方は?」  白髪《しらが》頭のその男は、一見おだやかそうに見えた。だが、眼鏡《めがね》の奥《おく》にある瞳は鋭《するど》い。 「刑事《けいじ》さん、まさか、こいつが何かしたとでも!?」  大門が真山をかばうように立ちふさがった。 「ま、ま、今はみなさんに事情を聞きませんとね。すいません、私、山辺《やまのべ》と申しますが」  刑事? 大門の言葉が、ようやく真山の脳裏に浸透《しんとう》してきた。警察が、いったいどうして、なんの事情を聞いているのだ? 「ここでは何ですから、ちょっとおいで願えませんか? どうやら昨夜、毛利さんと一緒《いっしょ》でいらっしゃったようだ」  そのことに気づいていなかったらしい大門が、愕然《がくぜん》とした表情を真山に向ける。だが、真山も彼に返す言葉は持っていなかった。 「お仕事のほうもあるでしょうが、上司の方にはこちらからお願いしておきます」  言葉は柔《やわ》らかいが、有無を言わせない響《ひび》きがある。そもそも、真山に断るつもりはなかった。いや、彼の脳裏はすでに真《ま》っ白《しろ》になっていたのだ。 『この流れって、つまり、郁恵ちゃんも殺されたっていうことか? しかも、ぼくが疑われてる?』  連れてゆかれた警察での取り調べは、まだ、それほど厳しいものではなかった。  昨夜の行動を詳《くわ》しく説明させられ、郁恵との関係を聞かれた。とりあえず、たった一つのことを除いて、覚えているかぎり、正直に答えた。  真山が隠したのは、自分のアリバイについてだ。 『誰か証明してくれる人はいますか?』  いないと答えるしかなかった。魔女《まじょ》と同居していますなどと、言えるはずがない。妄想《もうそう》だと思われたら、ますます疑われる。  まあ普通《ふつう》、『ある』のに『ない』などという犯人はいないから、深く追及《ついきゅう》はされなかった。それに、たとえアシャーキーに証言させても、彼のアリバイはないも同然だった。  刑事が言った犯行時刻が確かなら、それは真山が、郁恵と別れた直後に起こったのだ。しかも、真山と別れたすぐ近くの、人気《ひとけ》のない通りで。 『なんてことだ。どうして? 誰が? あの時、ぼくは誰か見なかっただろうか』  警察にも訊《たず》ねられ、真山は必死で思い出そうとした。だが、何故《なぜ》か記憶《きおく》に靄《もや》がかかっているようで、はっきりしない。  かなり酔《よ》っていたからだろう。ラストの記憶は、遠ざかっていく郁恵の背中だ。遠く……何度も何度も思い出しているうちに、それが段々近づいているように思えてきた。 『後悔《こうかい》しているからだ。送っていかなかったのを。今さら、追いかけたって……』  記憶というのは改変されるものだと、自分に言い聞かせる。  結局手がかりになるようなことは思いだせず、もちろん、疑惑《ぎわく》を晴らすこともできなかった。  それでも、午後十時をすぎると、警察での事情|聴取《ちょうしゅ》から解放された。  別れた直後に事件が起きたというのは、やはり疑わしい。けれど、とりあえず真山には動機が見当たらない。  それに、真山に、あんな手口で人が殺せるとは思えないからと、彼は言った。  本当なら、そんなことを漏《も》らしてはいけないのだろう。だが、人がいいのか、それとも何か目論見《もくろみ》があったのか、山辺という刑事は、——正確には警部だそうだが——真山の顔色をうかがうようにして、郁恵殺しの手口を教えてくれた。  もしかしたら、あまりに異常だったから、話さずにいられなかったのかもしれない、とも思う。  郁恵は、首を『握《にぎ》りつぶされて』死んでいたのだ。絞《し》められたのでも、切られたのでもない。道具を使ったわけでもない。  昨日、真山がキスさせられたあの白い首。  ものすごい力で握りつぶされ、ほとんどちぎれていたのだという。しかも、傷口や残った指先の跡《あと》からして、指の細い、子供か女性の手によるとしか思えないらしい。  真山が、表情を消したままで『はあ、そうなんですか』と、ぼんやり言ったのを、山辺はどう解釈《かいしゃく》したのだろうか。 「いや、私はどういうめぐりあわせか、こういう事件を担当することが多くてね。これから、似たような手口がないかどうか、コネを使って調べてみなきゃならんのですが」  ぼやくように言っていたから、多分、真山が信じていないだけだとでも思ったのかもしれない。  警察を出た真山は、アパートに戻《もど》ってきた。  本当は、戻りたくなどなかったのだ。けれど、アシャーキーをほうっておくのも恐《こわ》かった。悪い推測ばかりが広がってゆく。 『昨夜、あいつは……』  郁恵と別れた後でアパートに戻ったのは、何時ごろだったろう。  アシャーキーは、やはり待っていた。テーブルの上には食事の支度《したく》がしてあった。 「そうだ、あの時は……」  アパート目指《めざ》して歩きながら考える。真山の部屋の窓に、明かりはともっていない。  そうだ、窓だ。あの時、窓が開いていたような気がする。魔女《まじょ》というからには、空も飛べるのではなかろうか。暇《ひま》な時には壷《つぼ》の中にいるはずのアシャーキーが、椅子《いす》に座《すわ》っていなかったか。  どこか息が荒《あら》いように思えた……というのは、自分の憶測《おくそく》で改変してしまった記憶なのだろうか。  どこにいたのかと問い詰《つ》められた。同僚《どうりょう》と飲んでいたのだと応じた。煙草《たばこ》を買いにいったはずが、なぜそうなったのかは説明しなかった。 『ぼくのやることが気にいらないなら出てゆけ』  真山がそう言うと、彼女はおとなしくなった。口の中でもごもごと言《い》い訳《わけ》した後、あなたと離《はな》れたくないと、体を押《お》しつけてきた。  彼女を引き離し、どうにか壷の中に押しこめて、真山も敷《し》きっぱなしの布団《ふとん》にもぐりこんだのだ。  階段をのぼりながら、真山は思いだそうとした。昨夜、アシャーキーに不審《ふしん》なところはなかったか? 何かおかしなことを言っていなかったか? 『女のひとの匂《にお》いがするわ』  そう言っていた。けれど、他にも何か……。 『血……』  が、どうとか呟《つぶや》かなかっただろうか。  ぼくに血の匂いがしないかどうか確かめた? いいや、そんなはずはないな。では、自分から血の匂いがしないかどうかを気にしたのか。  ぞくり、と背筋《せすじ》が震《ふる》えた。 『ねえ、やっぱり、会社についてっちゃだめ? あたし、心配だな』  彼女は、そうも言っていた。あれは、どういう意味だったのだろう。浮気《うわき》の心配? 浮気なんて言葉を使っちゃいけない、彼女とぼくはそんな関係じゃない、とにかく、ぼくが女性と親しくなることを心配しているのだろうか。  もしも、他に女がいると察知したら、あいつはどうするのだろう。  魔女の魔法《まほう》なら、遠く離れていても、ぼくの行動を監視《かんし》できるかもしれない。そして、窓から外に飛び立っていったとしたら? 魔女は、どうやって嫉妬《しっと》をぶつけるのか。この世のものでないほどの怪力《かいりき》を発揮して……?  また背中がぞくりとした。その震えに、かすかに歓喜がまじっている。  自分を、人を殺してもいいほどにまで想《おも》っている誰《だれ》かがいる。……のかもしれないことが、真山のプライドをくすぐっている。 『女にこれほど惚《ほ》れられる。お前は立派な男になったんだ』  後頭部から、誰かが囁《ささや》いた。  だからかもしれない。それだけでもなかろうが、真山の足は、逃《に》げたいという思いと裏腹に、まっすぐアパートへその肉体を運んでいた。  いや、本当に逃げたいと思っているのだろうか。  嫌悪と恐怖《きょうふ》はある。確かにある。でも、それは自分自身の気持ちなのか。  真山は、自室の扉《とびら》の前に立った。  ノブに手を伸《の》ばそうか、回れ右しようか。迷《まよ》おうとしても、その暇も与えてもらえなかった。  今日は、扉は内側から開かれたのだ。 「おかえりなさい。今日も遅《おそ》かったのね。でもいいわ、許してあげる。女の人の匂いも、お酒の匂いもしないもの。残業だったの?」  出てきたアシャーキーの笑顔に、どこか冷たい光を、何か狂的なものを感じるのは気のせいだろうか。 『幻《まぼろし》なのか。そうであって欲しいのか。けれど、幻でないとすれば、郁恵のことはどうなる? いや、すべてぼくの妄想《もうそう》かもしれない。握りつぶされたなんていうのも、何かの間違《まちが》いで』  どちらかに決めることができれば楽なのだ。けれど、それは無理だった。  幻であると思いこむには、今、自分の肩《かた》に置かれているアシャーキーの手の感触《かんしょく》にはリアリティがありすぎる。  けれど、アシャーキーが実在するのなら、実在しているとするのならば、背負いこまねばならないものが多すぎる。  たとえば、幻でないとすれば。  この、かすかに湧《わ》いてくる喜びに、どう決着をつければいいのか。  後頭部が、また熱くなってきた。    5 誰《だれ》だ?  郁恵の葬儀《そうぎ》は、三日後に、自宅で行なわれた。  変死だったから、解剖《かいぼう》された遺体が戻《もど》ってくるのに時間がかかったのだ。  もっとも、彼女の死について詳《くわ》しい事情を知っている人間は少なかった。警察が手をまわしたのか、事件はほとんど報道もされなかった。いや、そんなことが警察にできるのかどうか、真山にはよくわからないのだが。  あれから、山辺も特に訪《おとず》れてはこない。  表向き、郁恵の死は、事故ということになっている。もっとも、参列者たちには噂《うわさ》が広がっているようだ。  誰もが自分を見ているようで、真山は落ち着かなかった。いちばん気になるのは、いつもの通り、後ろからの視線だったけれど。  毅然《きぜん》としていなければならないと思った。男なら、動揺《どうよう》してみせてはいけないと、熱くなった後頭部が囁《ささや》いている。寝不足《ねぶそく》の蒼《あお》ざめた顔は、隠《かく》しようもなかったけれど。  だが、彼よりももっと憔悴《しょうすい》している参列者がいた。派手に泣いている友人の女性たちより、大門のほうが、ずっと哀《かな》しそうに見えた。一人娘《ひとりむすめ》を喪《うしな》った両親と同じくらいに。  彼と会うのは、郁恵の死を知らされたあの日以来だ。大門は、ずっと会社を休んでいた。  出棺《しゅっかん》まで見送り、真山は大門と一緒《いっしょ》にその場を離《はな》れた。本当は早く帰りたかったのだが、大門が話したいことがあるというのだ。恐《こわ》いほど真剣《しんけん》な表情で、断りづらかった。  真山が戻りたい理由は、アシャーキーだ。ずっと彼女を見張っておかなければと思っている。  アシャーキーも、真山を見張りたいと思っているだろう。浮気《うわき》しないかどうか。  葬儀のあいだ感じていた、背後からの視線は、ずっとつきあってきたいつものあれだったのだろうか? それとも、まさかアシャーキーの監視《かんし》だったのか。あれだけ、家でじっとしているように言っておいたのに、なんとかしてついてきたのだろうか。魔法《まほう》で姿を隠すくらい魔女なら簡単にできそうな気がする。 『いや、あれはいつもの視線だったはずだ』  しっかりしろ、男らしくしろと、ずっと囁き続けていたのだし。  だが、アシャーキーでないとも言い切れない。彼女のようすが、ここ数日おかしい。まあ、もともとおかしいのだが。 『見つかった……? 止められるわけには……』  というかすかな呟《つぶや》きも耳にした。事件のことか、僕《ぼく》のことかと真山は思った。どちらでもないかもしれない。なんにせよ、それは、真山が見ていないと思いこんでのことのようだった。  アシャーキーが、もし本当に、一途《いちず》に自分のことを想《おも》っているなら。ほうっておくと、何をするかわからない。告発しようにも、相手は壷《つぼ》の中から出てくる美女だ。誰《だれ》が信用してくれるだろう。  自分が見張って、なんとか止めるしかない。  本当は、壷ごと会社に持っていこうかと思ったのだ。けれど、それも目立ちすぎる。誰かに、それはなんだと問いつめられるだろう。  小さくなれるから、ポケットに入ってゆけるとも、アシャーキーは言っていた。だが、それは危険すぎる。壷の中ならともかく、ポケットサイズでは、いつでも真山の目を盗んで行動できるし、万が一見つかった時に言《い》い訳《わけ》できない。  いいや、誰かに見られて、本当に恐《こわ》いのは、アシャーキーがすべて自分の妄想《もうそう》でしかなかったと、はっきりしてしまうことだ。虚空《こくう》に向かって自分が話しかけている光景を、誰かに見られでもしたら? おのれの狂気《きょうき》を疑いつつ、狂気だとはっきりさせることを恐れるのは、つまりは、自分が狂《くる》ってはいないと思っているから、なのだが。  考えにふけっていて、思いのほか長いあいだ、沈黙《ちんもく》したままで歩いてしまった。大門も、ふだんと違《ちが》って、ずっと静かだ。  そのことに気づいて、真山は口を開いた。 「話ってなんだい? 喫茶店《きっさてん》にでも入ろうか」  腹は空《す》いているが、食欲などあるはずがない。 「あ、ああ。人には聞かれたくないけど……、あれくらい空いていれば平気かな」  大門は、急に歩調を速めた。がらがらのファミリーレストランを見つけたのだ。  注文したのはコーヒーが二つ。真山は、ついケーキセットも頼《たの》んでしまっていた。飲み物だけでは、店側にみっともなく思われそうで心配だったのだ。気にするようなことではないと、わかってはいるのだが。  頼んだものが運ばれてくるまで、大門は口を開こうとはしなかった。  ウエイトレスが充分《じゅうぶん》離れてから、彼はようやく口を開いた。 「千恵さんの葬式《そうしき》に、雰囲気《ふんいき》が似てたな」 「そう、かな?」  一ヵ月前の、磯部千恵の死。あれは確か事故だったはずだが、そういえば、どんな事故なのかついに知らされなかった。  ずいぶんひどいありさまだったから、そうしたのだと聞いているが。  磯部千恵の死も、真山と別れたすぐ後のことだった。あの時は、誰も真山と一緒《いっしょ》だったことを知らず、おかしな噂《うわさ》を立てられることもなかったが。 『千恵さんには妙《みょう》な告白をされちゃったよな。好きな人がいて困ってる、とか』  自分でも認め難《がた》い恋愛なのだとか……ずきんと後頭部が痛んだ。思いだせない。  彼が顔をしかめたのをどう解釈《かいしゃく》したのか、大門は唐突《とうとつ》に口を開いた。 「真山……お前、いったい誰なんだ?」  戸惑《とまど》う以外に、何ができたろう。冗談《じょうだん》を言われているのですらなかった。 「ああ、ごめん。そんなことはどうでもいいんだ」  大門は笑った。寂《さび》しい笑いだった。 「俺《おれ》な、この何日かで、お前のこといろいろ考えてたんだ。どうして俺じゃなくて、お前だったのかなって、そんなこと思っちまってさ」 「ぼ、ぼくは」  なんと答えられただろう。  大門は、毛利郁恵が好きだったのだ。女なんぞいくらでもいるような顔をして、風俗での遊びをことさらに吹聴《ふいちょう》して、豪快《ごうかい》なふりをして、そのくせ、本当に惚《ほ》れた相手には何も言えずにいた。  少年のように。  真山の胸の奥《おく》から……。  ……軽蔑《けいべつ》の気持ちが湧《わ》いてくる。 『どうしてだ! 当たり前じゃないか!』  自分に問いかける。その程度のことで、友人をさげすむなんて。理不尽《りふじん》だ。 「みっともないよなぁ。男のやきもちなんて」  真山には、答えようがなかった。自分と戦うのに精一杯《せいいっぱい》で。沸騰《ふっとう》してくる怒《いか》り。その源《みなもと》をみきわめる。失望。何に対して? 大門が、期待していたような人間でなかったからか。  なにを望んでいたのだ、自分は。 「それはわかってる。だから、お前のいいところを見つけようとして考えて……で、気がついたんだ。俺、お前のことを何も知らない」  真摯《しんし》なまなざしで見つめる大門。真山は、ようやく混乱する感情を抑《おさ》えこんだ。大門の感情に対峙《たいじ》してやらねばならない。なんと慰《なぐさ》めればいいのかは、しかし、まだわからない。郁恵が死んでしまっている以上、ゆずってやることだって……。 「え? なんだって?」 「お前はいいやつなんだから仕方ない、そう納得《なっとく》しようと思って考えてて、そうしたら気がついたんだ。お前ってどこの出身だっけ?」 「い、言ったことなかったかな、ああ、その」  答えようとして、詰《つ》まった。  がしゃんという音が、とてもとても遠くで聞こえた。何かと思ったら、コーヒーカップを受け皿《ざら》に叩《たた》きつけるようにおろした音だった——真山自身が。 「真山、お前って、どこの大学出たんだっけ? 同期たって、お前は一ヵ月|遅《おく》れた、ほんとは中途《ちゅうと》入社だったぜ。その前に何をしてたのかも、俺は知らない。驚《おどろ》いたぜ、親友だと思ってたからな」 「その話、したこと、なかったっけ」  真山はぎこちなく笑った。  時間を稼《かせ》いで思いだそうとしたのだ。だが、記憶《きおく》は甦《よみがえ》ってこなかった。  これまで、そんなことは気にもしなかった。営業マンとして仕事をしていれば、お客とそんな話題になることもあったはずなのに、いったい、そんな時、自分はどう答えていたのだろう。  フラッシュする光景。 『そうなんですか? ぼくも熊本にいたことがありまして』  阿蘇《あそ》でデートをしただの、黒豚チャーシューのラーメン屋が旨《うま》いだの。 『ぼくも名古屋《なごや》にはしばらく住んでましたよ』  ナナちゃんのこと、百メートル道路のこと、ひまつぶしに名古屋コーチン。  いろんなお客と、いろんな土地のことでもりあがった。おかげで営業成績もそこそこだった。  どれも嘘《うそ》をついていたりはしない。はっきりと覚えている。どれもこれも、大人《おとな》になってからの自分だ。働いている。今と変わらない姿。  それがいつだったかは、覚えていない。いつも真山は一人だった。親もいない。兄弟もいない。  一人だ。誰《だれ》も近づけなかった。強引に近づいてくる者がいれば……。  深く考えたことはなかった。  今、こうして問われるまで。  自分は……。 『誰なのか?』  そんなことがありえるはずはなかった。自分は、真山新也。二十……いくつだったかは忘れたが、とにかく二十代だ。なかばもすぎていない。高校を卒業して就職したとしても。 『ぼくは、学校に通ったことがあるのか?』  蒼白《そうはく》になっている真山に気がついているのかいないのか、大門は話し続けている。親友だと思っていた真山のことすら何も知らなかった。愛していると思っていた郁恵のことだって、自分は何も知らないのだろう。だから、彼女を誰が殺したのか突《つ》き止めたい。そうやって、彼女を知ってゆかなければ、人と人とにつながりがあることを信じられなくなりそうだ……。真山に、手伝って欲しいと彼は言った。警察は真山のことを疑っているようだが、自分はそんなこと信じない。お前のためにも、二人で真犯人をつきとめよう、と。 「俺はお前のこと信じてる」  まっすぐな大門の目。  真山の後頭部が熱くなっていた。何かが飛び出しそうだ。  自分の内側へ踏《ふ》みこむな。忘れていたことを、忘れていたかったことを、あばきださないでくれ。 「俺はな、真山、お前のこと……」  たわ言だ。  真山は、ゆらりと立ち上がった。  愛、友情、そんなものは幻《まぼろし》だ。何故《なぜ》かというに、ぼくが幻なのだから。  けれど、そうだとしたら。  アシャーキー。幻同士なら、わかりあえるかも。 「おい、真山、どうしたんだ。どこへ行くんだ」  大門が手を伸《の》ばしてくる。  ふりはらう。自分から掴《つか》みかかりたかった。  うなじから何かが噴《ふ》き出しそうだ。  だが、かろうじて抑《おさ》えた。  見られているからだ。他の客に、従業員《じゅうぎょういん》に。  こんなところでかっとして乱暴するのは、真山がイメージするところの『男らしく』ない。  彼は、無言のまま走り出した。後ろで大門が何か怒鳴《どな》っているが、聞き流した。幻滅《げんめつ》した。泣き言を言うなんて。あいつこそ男だと、憧《あこが》れを持っていたのに。  その奇妙《きみょう》な感覚、失恋にも似た思いは、真山の背後から発しているようだ。  今だけは、視線が真山を見ていない。    6 二つの顔  アパートに戻《もど》って、ドアを開いた。  ここ数日とは違《ちが》って、躊躇《ちゅうちょ》しなかった。  慰《なぐさ》めが欲しかったのだ。  足もとが不安定だった。地面が全部、ぐにゃぐにゃしているような気がした。  自分も幻だというのなら、幻を受け入れるのになんの躊躇がいるだろう。  扉《とびら》を開ける。 「……ど、どなたですか?」  我ながら、間《ま》の抜《ぬ》けた声だと思う。  髪《かみ》の長い女がいた。二人だ。もの静かな印象の知的な美女と、妖艶《ようえん》な雰囲気《ふんいき》の美女。甲乙《こうおつ》つけがたいその美しさに、真山の後頭部が熱くなった。  ぶよぶよとふくれた乳《ちち》、重たげな尻《しり》、衣服の上からでもはっきりとわかる豊かな肢体《したい》が、真山の胸を悪くさせる。  だが、今日《きょう》の真山には、その妹悪《けんお》の正体が理解できる。逃《に》げたいのだ。けれどその恐怖《きょうふ》と正面から向き合いたくないから、プライドが傷つくから、それを怒《いか》りにすりかえている。  忘れていたい何かをあばかれそうで、怯《おび》えているのだ、自分は。  それは、さきほどの大門との会話で感じたものに似ていた。だから、今日は理解できる。  女たちは、真山の問いに答えようとしない。冷たい表情で、じっと彼を見つめている。 「あ、あんたたちはなんだ!」  荒《あ》れる声とは裏腹に、真山は後ずさりしていた。アシャーキーはどうしたのだろうと思ったが、訊《たず》ねるのはためらわれた。  なんのことか、とでも答えられたら、あれが幻《まぼろし》でしかないとしたら。  でも、しかし。 『たった一人なのに彼女だけなのにぼくをおもってくれたほかにいらないといってくれたのにでもこわいどうすればいい』  その時、真山は気がついた。  妖艶《ようえん》なほうの女の髪。立てばふくらはぎくらいまでありそうな長い髪が、アシャーキーの壷《つぼ》を隠《かく》していた。いや、巻きついているようだ。まるで、蓋《ふた》を押《お》さえつけているかのように。  真山の足が止まった。その時、妖艶な女が口を開いた。 「人払《ひとばら》いの結界はちゃんとしてるの、霧香?」  静かな印象の美女が答える。こちらも髪が長いが、せいぜい腰《こし》までだ。 「ええ、もちろんよ、未亜子」  言葉をかわしているあいだも、女たちは真山から視線をそらさない。 「じゃあ、山辺さんの言っていた例の彼なのかしら?」 「わたしの感知のにもひっかからなかった。ということは、人間ではないのでしょうね」  霧香という女が、目を細めて真山を見た。 「そうなの、あなたは……二面女」  ……なんのことだ? 「ぼ、ぼくは女なんかじゃないっ。女は嫌いだ。いつも損ばっかりだ。女の体なんかいらないっ」  相手が言ったことの意味もわからないのに、そう口走っていた。自分が何を言っているのかも、理解不能だった。  いや、違《ちが》う。自分が言ったのではない。真山の口は動いていない。それは真後ろから聞こえてきた。だが、彼の内側からも響《ひび》いている。  そう気がついた途端《とたん》に。  真山は、ぐるりと百八十度回転していた。要《よう》するに、女たちに背を向けたのである。逃げだそうとしたのではない。後ろに向かって、土足で、踵《かかと》からアパートにあがってゆく。  なのに、相変わらず、女たちは見えている。同時に、開いたままの扉《とびら》の向こうも見える。アパートの廊下《ろうか》と手すりが遠ざかって行く。外はすでに日が暮れている。広がってゆく闇《やみ》。 「どうなってるんだっ!」  真山の絶叫《ぜっきょう》は、どこにも届かない。 「うるさいんだよ。静かにしなよ」  低いかすれた女の声が聞こえてくる。  彼の真後ろから、後頭部からだ。  あの視線の主に違いない……真山は確信していた。だが、誰なのだ、それは?  がつんと、額の真ん中を殴《なぐ》られた。痛烈《つうれつ》な一撃《いちげき》だ。気が遠くなりそうだった。だが、彼は耐《た》えた。耐えてしまった。そうして、記憶《きおく》を甦《よみがえ》らせる。 『この痛みだ。郁恵ちゃんの時も[#「郁恵ちゃんの時も」に傍点]、千恵さんの時も[#「千恵さんの時も」に傍点]、このおかげで気を失った』  だけど、今夜だけはそうはいかない。 「なんなんだ……お前は……」 「……どうして、今日《きょう》に限って眠らないかね。こういう時は、あんたは黙《だま》ってりゃいいのよ」  真山を殴ったのは、奇怪《きかい》な握《にぎ》り拳《こぶし》だった。関節が奇妙《きみょう》にくにゃくにゃしている。指はともかく、腕《うで》はもっと異様だった。まるで、ゴムか何かでできた筒《つつ》のようだ。一定の太さで、骨も筋肉も感じられない。それは、大きく曲がっている。  伸《の》びている先は、真山のもともとの視界では追い切れなかった。耳の横をぐるっと回って、後頭部のあたりに消えていたからだ。  だが、もうひとつの視界、背後を見るもう一対の目は、最後までその奇怪な腕を見続けることができた。いや、完全には見切れはしなかったが。  なにせ、腕のつけねは、もう一対の目のすぐ下にあった。本当なら、鼻があるあたりだ。  鼻? 目? そうだ。そして、どうやら口もある。大きく裂《さ》けていて、くちびるが視界に入るほど突《つ》き出ている。  後頭部に、もう一つ顔があった。  それを見た瞬間《しゅんかん》に、すべてを思い出した。がらがらと何もかもが崩《くず》れ落ちてゆく。それでも必死に、残されたかすかな『現実』にすがろうとして、真山は拒否《きょひ》の叫《さけ》びをあげた。 「こんなの、幻だ! ありえない! ぼ、ぼくは……ぼくは女なんかじゃないっ」 「おだまりっ。これが『現実』なんだよ。だけど、現実に返る必要なんてない。こいつらさえ始末すれば、あたしらはいつまでも夢《ゆめ》ん中で生きてられるわさっ」  叫んだ真山を叱咤《しった》したのは、腕のような鼻を持った、もう一つの顔だ。  二面女。それは古い伝説に登場する妖怪《ようかい》である。正面から見れば、美しくて優しそうな娘《むすめ》。けれど、背面からは醜《みにくい》い怪物《かいぶつ》。  誰《だれ》かが理屈《りくつ》をつけた。女性の二面性。聖性と悪性をあらわすものと解釈《かいしゃく》しようと。  二面。それは女に限ったものではなかろう。なかろうけれど、二面女を語ったのは男たちだった。彼らは、自分たちの願望を、自分たちの憎悪《ぞうお》を二面女に投影《とうえい》した。  そして——。  彼女は歪《ゆが》んだ。歪むしかなかった。 「あなたは自分が女性であることを憎《にく》んだ。そして、人間として、人々のあいだに身を隠《かく》す時に、男の姿を選んだ。けれど、あなたの中に蓄《たくわ》えられた憎悪はあまりに根が深すぎた」  霧香が、目を閉じたまま言葉をつむぐ。どうやってつきとめたのか。 「そうかい……あんた、雲外鏡《うんがいきょう》だね」  もう一人の自分が呟《つぶや》く。意味はわかった。鏡の妖怪だ。  妖怪。非現実的なその名が、今は素直《すなお》に受け入れられる。妖鏡《ようきょう》であれば、なんでも映《うつ》るのだろう。真山でさえ知らなかった、自分の過去も記憶《きおく》も。 「あたしも噂《うわさ》には聞いてるよ。東京でもいちばんうるさいネットワークに、そういうのがいるってね。じゃあ、そっちにいるのは濡《ぬ》れ女かい」  この醜《みにく》い声が、自分のものだとは、真山は信じたくなかった。けれど、今はすべてを思い出している。思いだせば、怖《こわ》くはない。吐《は》き気もしない。自分が狂っているとわかれば、狂うことへの恐れは消える。  ただ、哀《かな》しかった。  自分が殺したのだ。郁恵を。自分は、『女』などではあってはならなかったから、常に『男』でなければならなかったから。そのプライドを粉砕《ふんさい》した彼女を殺した。  そうだ、千恵も殺した。彼女は、レスビアンだった。それを知った時に、自分が嫌う『女』という存在が、よりにもよって『女』を愛するという事実に耐《た》え切れずに、殺してしまったのだ。  その他にも、もう何人殺しただろう。数え切れないほど殺してきた。真山という名前になる以前、あちこちに住んで。  女が女であるというだけで。  自分と同じ女だから。  女だからとこじつけて。  自分の気に入らない相手だから。  この後ろの腕で、くびり殺したのだ。  なんということをしてしまったのか。自分を罰《ばっ》するのが怖いから、それを忘れた。もう一人の自分に強制されたからだけではない。あの快感を覚えているのが怖かった。  あの素晴《すば》らしい感触《かんしょく》。全てを支配している感覚。ぶちりとちぎれる肉。ごぎゃりと砕《くだ》ける骨。 「ひぃひぃひぃ」  真山は息を吸った。認められない。許されない。だけれど……こんなのみんな『夢《ゆめ》』であって欲しい。『現実』に帰りたい。 「お前らも死にな!」  背後の自分と表の自分の意志が一致する。第三の腕をふるった。どこまでも伸《の》びて標的を追いかけ、鉄も握《にぎ》りつぶす腕だ。  濡れ女も雲外鏡も、叩《たた》き殺す。女は邪魔《じゃま》だ。みんな邪魔だ。  とっさに、未亜子の髪《かみ》が、ぶうんと唸《うな》った。すべてを束縛《そくばく》し、同時に何もかもを切り裂《さ》く刃《やいば》にもなる。今は盾《たて》、おのれの身を守る。 「女の髪なんてぇっ」  もう一人の自分が、憎悪《ぞうお》で震《ふる》える声をあげ、怪腕《かいわん》を退《ひ》く。  その時だ。  髪がほどけた壷《つぼ》から、金色の閃光《せんこう》がほとばしり、いきおいよく煙《けむり》がたちのぼった。  この数日で見慣《みな》れた光景。アシャーキーが出現する前触《まえぶ》れだ。 『彼女なら、彼女ならぼくを許してくれる』  真山の心が躍《おど》った。希望の光がさす。彼女は自分を救おうとして、このたちに封《ふう》じられていたのではないのか。だとしたら、たとえ自分が歪《ゆが》み果てた殺人鬼《さつじんき》だとしても、彼女は……。  けれど。  あらわれたアシャーキーの顔は、恐ろしいものだった。まるで、真山の後頭部の顔のように。怒りと憎悪に歪んでいる。  冷えた。真山の心は、すうっと冷えていった。 「あんただったんだ! やっぱり、あんただったんだ! あたしの愛したあの人を殺したのは! ほんのちょっと、出かけてた。あたしがいれば、殺させなかった!」  アシャーキーの手の中に、冷たく輝《かがや》く氷の刃があらわれる。投げつけてきた。簡単に、怪腕ではじき飛ばした。  絶望。  彼女が、彼とともにいたのはこのためだったのだ。  アシャーキーは非力だった。自分を疑って、じっと見張っていたのだろう。 「磯部さんが亡《な》くなった時に、わたしたちに知らせてくれるべきだったわ、アシャーキー。自分の手で復讐《ふくしゅう》したかったのでしょうけれど、あなたには荷が重……」 「わかってる。もう一人殺させた……みんなに秘密にしてた、あたしの責任。だから、最初に誓《ちか》った通り、どうしてもあたしの手で!」  できるはずがない。真山がアシャーキーを恐れたのは未知の存在だったからこそ。妖怪の存在を受け入れれば、その力のほども見極められる。 「ふん、そうかい、お前があいつとちちくりあってたってわけかい!」  裏の顔は怒り狂《くる》っている。だが、表の顔はすでに絶望に我が身をゆだねていた。  思ったより、衝撃《しょうげき》は弱い。暗闇《くらやみ》は怖《こわ》くない。落ちてゆけばいい。何も見えないから、動かなくてもいい。だた、ぼうっとしていればいい。  決めるのは、もう一人の自分にまかせて……。 「いやああああ」  アシャーキーが突進《とっしん》してくる。なんの戦う力もないだろうに。金色のきらきらした粉を後にひきながら、空を飛んで。 「お前から殺してやるよ!」  怪腕が彼女に襲《おそ》いかかる。  アシャーキーの喉《のど》を、がっしりと握りしめる。そのままであったなら、三秒とかからず、アシャーキーはくびり殺されていただろう。 「ひゅっ」  未亜子が、鋭《するど》い呼気《こき》を吐いた。髪が渦《うず》を巻き、本当の姿をあらわした。下半身はきらめく鱗《うろこ》を持った大蛇《だいじゃ》だ。髪は、さらに長くなり、鋼鉄《こうてつ》の強さと絹糸《きぬいと》のしなやかさをそなえている。  風を裂《さ》いてふるわれた髪が、すっぱりと二面女の怪腕を断ち落とした。 「げほっ、げほっ」  床《ゆか》に落ちたアシャーキーが、激《はげ》しく咳《せ》きこむ。真山は、それをただながめていた。すでに拒絶《きょぜつ》された以上、もうどうしようも……。  そして、切られたはずの腕がまた伸びる。  アシャーキーがふりかえる。彼女の決意が、涙《なみだ》をあふれさせながら、閉じられない目にあらわれていた。彼女は死ぬ気だ。どうしてだろう。 『愛のため』  そんな言葉が思い浮《う》かび、真山はくちびるに冷笑を刻んだ。  だが、下がり切った彼の心の温度のベクトルが、その瞬間《しゅんかん》に反転した。沸騰《ふっとう》する。 「もう、見てたくなんかないよっ。誰《だれ》かのために泣いてるアシャーキーなんか。どうして、ぼくのためじゃないんだ!」  真山は、とっさに両手で、自分の頭を掴《つか》んだ。本来の腕の支配権を、戦いに夢中《むちゅう》になっているもう一人の自分から取り戻《もど》したのだ。 「何をするんだい。とっととお離《はな》しっ」  後頭部の目をふさいだ。自分も目をつぶる。  何も見えない闇《やみ》のはずなのに。  顔が浮かんだ。アシャーキーと、もう一人。誰かのために、愛した女性のために必死になっているひとの顔が。  もう一人いたではないか。自分を求めてくれた、信じてくれた者が。真山は、彼に触《ふ》れられるのが怖《こわ》かった。踏《ふ》みこまれるのを嫌っていた。  彼の中の『女』が、大門という『男』に惹《ひ》かれてしまうのが。 『あいつは殺させない』  真山は、渾身《こんしん》の力をこめて、指を眼窩《がんか》にこじいれた。思ったよりはるかに固い。だが、眼球はつぶせなくても、隙間《すきま》に指をもぐりこませることはできた。ぬるぬるした球体に爪《つめ》をひっかけ、えぐりだそうとする。 「ぐぎゃあああ」  二面女がすさまじい悲鳴《ひめい》をあげた。 「お、お前はっ! あたしのくせに、よくも! 男はいつもこうだ。やっぱり、あたしが醜《みにく》いから」  逆上したもう一人の自分が、真山の腹を殴《なぐ》りつける。他人であるかのように、手加減はない。  怪力《かいりき》の腕は、ずばりと腹筋を破り、内臓にめりこんだ。痛みはなかった。ぬるりとした感触《かんしょく》だけが伝わってくる。  真山は、口からごぼりと血を吐《は》いた。  だが眼窩にくいこんだ指は抜《ぬ》けない。 「ちくしょう。みんなこうか! ちくしょう、あたしが醜いからって、だからって」 「——いい加減にしてちょうだい」  未亜子が凍《い》てついた声でいった。 「あたしたちまで憎《にく》んでしまいそうになるわ。あなたと同じ——でいることを」  未亜子の髪《かみ》がほとばしる。  次の瞬間《しゅんかん》、二面女の五体はばらばらにされていた。  意識のすべてが闇《やみ》へ消えてゆく。その時も、真山と二面女は、まだ分離《ぶんり》したままだった。そして、真山が最後に考えたのは、自分の最期《さいご》の姿が、アシャーキーにどんな風に見えたかということだった。男らしかったろうか。みっともなくはなかったろうか。そして、彼女が、大門に、自分の最期を伝えてくれる日は来るのだろうか。    7 終わりの終わり  大門は、胸にぽっかりと大きな穴が空《あ》いているかのような気分で、原宿の街を歩いていた。  あの山辺という刑事《けいじ》は、毛利郁恵殺人事件は、行方不明になった真山のしわざだということで決着がつくだろうと言っていた。この事件だけでなく、磯部千恵の一件も、真山に押しつけられることになるだろうと。  磯部千恵までが、殺されていたとは思わなかった。その、あまりに異様な死にざまに、所轄《しょかつ》の警察がとまどい、秘密にしていたのだという。 『それがなければ、あるいはね……』  山辺が、大門に外部には口外不要のことまで話してくれたのは、事件の裏に、そういった警察の不手際《ふてぎわ》があったからかもしれない。  だからといって、はいそうですかと聞いていられることではない。  どうして真山なんだ、ちゃんと捜査《そうさ》しろと喰ってかかる大門に、山辺はある占《うらな》い館を教えてくれた。店の名は <ミラーメイズ> 。狩野《かのう》霧香という占い師を訪《たず》ねてみろと。  彼女ならば、真実を教えてくれるかもしれない。  そんなごまかしをと、怒ろうとした大門は、山辺のそれに続く言葉の、奇妙《きみょう》なほどの重みに、口を閉ざさざるをえなかった。 『きみが、本当のことに耐《た》えられると、霧香さんが判断したならだがね』  その占い師の名を口にした時に、山辺が浮かべていた表情は、尊敬、畏怖《いふ》、それともただの恐怖《きょうふ》だったろうか?  ともかく、場所は教えてもらった。  そして、大門はここにいる。  彼は、意を決して、扉《とびら》をくぐった。決して引き返せない、夜の扉を。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-2————————  ガタン。  電車が停車し、また動きだします。その軽い振動を身体《からだ》に覚えたのは、さて、何回目でしたっけ?  少し慌てて、わたしは、膝《ひざ》の上の漫画から目を上げ、車窓の風景を確認します。  幾度となく使った路線です。だいたいの風景は覚えています。まだまだ、目的の駅は先のようです。  わたしは、ほっとしつつ、目を車内に戻します。どうやら、わたしが漫画を読み耽《ふけ》っているうちに、若いカップルは降りてしまっているようです。  わたしは、漫画の世界に戻りました。今、読んでいるのはボクシング漫画です。『あしたのジョー』以来、衰えないジャンルですね。  ずいぶん歳をとったはずのわたしですが、漫画を読むとなると、少年漫画のほうが青年、あるいは、それ以上を対象にした漫画よりもしっくりきます。  多少、粗削りでもいいから、活気のある漫画が好きだからでしょうね。  まっすぐ前を向いたキャラクターの瞳《ひとみ》が、わたしを射ます。自分の努力を信じ、生き様を貫こうという意志をこめて。  そして、わたしは満足げな微笑《ほほえ》みで彼に応《こた》えます。  しかし、わたしは知ってしまいました。  物事には、常に二つの面があることを。光が射せば、影もまた生まれることを。  夢想は努力の原動力です。わたしもまた、夢追い人。それを心に刻みながら生きてきました。  しかし、同時にわたしは現実に生きています。努力が必ずしも結果をもたらさなかった事例に、悲しい気持ちとともに、いくつか立ち会ってきました。  夢想と現実の間を繋《つな》ぐもの。それを、わたしはどれだけ信じればよいのでしょうか。  漫画の中の彼は、そうわたしが問い返していることなど、知るはずもなく、必死にパンチを繰り出しています。  ただ、己の明日を信じて。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第二話  敗れざる英雄  清松みゆき   1.緒戦:Karateka   2.連戦:Unbreakable Hero   3.挑戦:Game of Death   4.決戦:Double Dragon   5.終戦:Final Fight [#改ページ]    1 緒戦:Karateka 「では、神河《かみかわ》のセカンド・リーグ昇格《しょうかく》を祝《いわ》って」  言葉とともに、ビールのジョッキが軽く差し上げられた。大ジョッキであるはずのそれが中ジョッキに見えるほど、差し上げた拳《こぶし》は大きく、腕《うで》は太い。ただ太いのではない。筋肉が盛《も》り上がり、皮膚《ひふ》の上にはっきりわかるくびれを作っている。 「乾杯《かんぱい》」  声があがる。そして、三つのジョッキ——大一つと中二つ——が打ちあわされる。各々《おのおの》の口もとにビールが運ばれる。 「うまい。蒸《む》してくると、やっぱりビールだな」  あっという間《ま》に一つが空《から》になった。唯一《ゆいいつ》の大ジョッキが、真《ま》っ先《さき》にだ。 「おーい、追加。それと料理の注文も取ってくれよ」  遠慮《えんりょ》のない大声が上がる。小走りに、注文表を持って店員がやってくる。 「大ジョッキ、おかわりね。それから……」  矢《や》つぎ早《ばや》に料理が注文される。ほとんどメニューを端《はし》から読み上げているも同然。 「相変わらずだなあ」  それを見ながら一人が呟《つぶや》く。銀《ぎん》ブチの眼鏡《めがね》をかけ、赤いチェックのシャツを着た青年だ。 「お前も欲しいのがあったら頼《たの》めよ。遠慮《えんりょ》はいらないぜ」 「もう、さっきキミが言った」 「そうか? じゃあ、先生は?」 「いえ、わたしは少食ですので」  先生と呼《よ》ばれた男は答えた。ずんぐりむっくりのその男は、少々よれたYシャツに、これまた少しばかりくたびれたネクタイを着け、明るいとは言えない店内であるにもかかわらず、丸いサングラスをかけている。  この男だけが、明らかに年齢《ねんれい》が違《ちが》う。見た目、五十|歳《さい》前後といったところだ。そして、残る二人は二十代と見える若者。父親と息子《むすこ》と、その友人といえば、それで通じるだろう。  実際には異なる。赤いチェックのシャツの青年が若手|麻雀《マージャン》プロ、Tシャツの筋肉質の青年がスポーツ・ジムのインストラクター、そして、中年の男は考古学《こうこがく》の教授。  何ともおかしな取りあわせだ。そこで、言いかたを変えるとこうなる。麻雀プロ、元プロ野球選手、そして……  ……妖怪《ようかい》。  人の社会にありながら、人でないもの。考古学者|土屋《つちや》野呂助《のろすけ》の正体は、人間ほどの大きさもある化《ば》け土竜《もぐら》だ。妖怪仲間での通り名は�教授�。むろん、彼の人間社会での職業に由来する。  そして今、彼と席を同じくする二人の若者、野島《のじま》敏彦《としひこ》と神河|昇一《しょういち》。彼ら二人もまた、かつて妖怪のかかわった事件に巻きこまれたことがある。その縁《えん》で、こうしてたまに会っている。  酒好きの野島が一方的に、ほかの二人を誘《さそ》っているというのが正しいところなのだが。 「水くさいぜ、俺《おれ》に内緒《ないしょ》ってのはよ」  ぐいとジョッキを呷《あお》りながら、野島が神河に文句《もんく》をつけている。 「いや、忙《いそが》しかったから。それに、セカンド・リーグに上がったからといって、メシが食えるようになったってことでもないし。喜んではいられないよ」  神河はいわゆる誌上麻雀のプロ雀士《ジャンし》である。いくつか存在するプロ団体の一つ、最強位戦に在籍《ざいせき》している。ファースト、セカンド、サードの三つのリーグに分かれているその中で、最低ランクのサード・リーグから、この四月にようやくセカンド・リーグに昇格《しょうかく》した。  今は五月。それを知った野島が、一月遅《ひとつきおく》れで、強引に祝賀会《しゅくがかい》を開いたというわけだ。これまた強引に�教授�土屋を誘って。会場は、新宿の場末《ばすえ》の安い居酒屋《いざかや》である。 「そんなんでよく続けられるなあ」  唐揚《からあ》げの皿《さら》が運ばれてくるや、その一切れを待ってましたとばかりに口の中に放りこむ。 「どうせ、ファースト・リーグに上がっても、対局料だけで食べてくってのにはほど遠い世界なんだろ?」 「大きな大会でも優勝賞金百万円ってレベルだからね」  神河は答える。 「でも、ファースト・リーグはステータスになる。知名度が上がれば、戦術書を書かせてもらえるし、借金して雀荘経営ってこともできる」 「やっぱ、ふつうに働いたほうがよくないか?」 「じゃあ、野島。キミに聞くけど、キミはドラフトで指名されたとき、『これで金が稼《かせ》げて嬉《うれ》しい』とでも思ったのか?」 「え……いや、まあ、そりゃ、思わないでもなかったが……」 「それより、『野球を続けていられる』って嬉しさが先だっただろ? 俺だって同じさ。俺は麻雀ってゲームが将棋《しょうぎ》や囲碁《いご》に劣《おと》っているとは思ってない。棋士《きし》が職業として成り立つなら、雀士が成り立たないわけがない!」  声が大きくなった。神河はぐいとジョッキに残っていたビールを飲《の》み干《ほ》す。  大樹《だいき》くんはずいぶん否定してましたけど……。  教授は、仲間の一人を思いだしていた。算盤《そろばん》が変化した妖怪《ようかい》のことを。麻雀は運不運の要素が強く、しかも、多人数ゲームという特徴《とくちょう》がある。それは、将棋や囲碁とは決定的に違《ちが》うと、彼は解説していた。  実力が実力として評価されるに、きわめて向かない種類のゲームだと。 「でもよ、現実に……」 「俺は現実の話はしていない。未来の話をしている!」 「やれ、弱りましたね」  大樹の理屈《りくつ》は恐《おそ》らく正しい。現実がそれを肯定《こうてい》している。しかし、いかな現実も理想と未来を否定する理由にしない、為《な》させない。それが人間という生き物の特徴だ。  その人間の前向きさを教授は羨《うらや》み、それに憧《あこが》れ、そして、何よりそれを好いていた。  自分たちが生まれた理由——それは「現実」以外の何物でもない——に、半《なか》ば以上縛《しば》られた妖怪には、なかなか達しえない生きかただから。 「弱ったって何がだい?」  聞き咎《とが》めて、野島が尋《たず》ねる。  独《ひと》り言《ごと》は教授の悪い癖《くせ》だ。心の中で思ったことが、つい口に出る。 「あ……いや、ほら、ちょっと声が大きいかな、と」 「そう?」  教授のごまかしを真《ま》に受け、野島は周囲を見渡《みわた》す。だが、当然ながら、どこにも自分たちを気にしているようすはない。それぞれのテーブルで、思い思いの言葉が乱雑に交《か》わされている。  インドネシアの暴動のこと。インドの核《かく》実験のこと。それに呼応《こおう》したパキスタンの動きのこと。半月後に迫《せま》ったワールドカップのこと……。  喧騒《けんそう》に負けぬように、みなが声高《こわだか》に喋《しゃべ》り、さらに暗感を増している。 「誰《だれ》も気にしちゃいないよ、先生」  野島は肩《かた》をすくめて、教授に笑いかけた。  結局、神河への説得は立ち消えになり、三人の話も、他のテーブルで交《か》わされているものと大差のない世間話《せけんばなし》に落ち着いた。  その後、いいかげん話題のなくなった時点で酒宴《しゅえん》は終わりを迎《むか》えた。祝賀会《しゅくがかい》ということで、勘定《かんじょう》は教授と野島の折半《せっぱん》。 (やっぱり、これは割《わり》に合いませんよねえ)  教授は、うっかり口に出さないようにしながら、考える。飲み食いした量が圧倒的《あっとうてき》に違《ちが》う。野島の一人分は、他の二人分の合計を軽く越《こ》えている。  野島にたかろうという気持ちがないことはわかっている。割《わり》り勘《かん》が公平、素直《すなお》にそう思っているだけだ。だからこそ、苦笑《にがわら》いするしかない。 「うん、まあ、いい酔《よ》い加減だ」  店を出たところで、野島が伸《の》びをする。 「化物《ばけもの》め」  赤いのを通り越して、少々青くなりかけている神河が呟《つぶや》く。 「いや、まったく」  頷《うなず》いたのは教授。自分の正体はとりあえず、棚《たな》の上だ。 「鍛《きた》えかたの差だな。内臓が弱過ぎるんだよ、お前は」 「お前が強過ぎるんだ。勘定書き、覗《のぞ》かせてもらったが……正の字が二つ書いてあったぞ」 「そんなもんだったかな」  野島は涼《すず》しい顔で答える。 「店を変えてもう少し飲んでたいところだけどな……」  残る二人が顔を見あわせるのも構わず、野島はキョロキョロとあたりを見渡《みわた》しながら歩き始める。  その足がピタリと止まり、野島は前方をじっと睨《にら》んだ。 「何で、いなくならねえんだろうな、ああいうやつら」  教授は、視線の先を追う。四人組が、さほど広くもない通りを横並《よこなら》びで歩いてくる。派手な柄《がら》のシャツが三人、一人だけが、ストライプの入った背広を赤いシャツの上に羽織《はお》っている。  刺《さ》すような目を周囲にまき散らしている。かかわりあいを避《さ》け、ほかの通行人たちが目を逸《そ》らしながら道端《みちばた》へと避けている。 「ふん」  大ジョッキ十杯《じっぱい》が、人にまったく影響《えいきょう》しないわけがない。野島は傲然《ごうぜん》と顔を上げ、歩き始める。 「ちょっと、野島君」  慌《あわ》てて、教授が声をかける。  間《ま》に合わなかった。 「何だ、てめえ? アヤかけようってのか?」  四人組の、一番|小柄《こがら》な男が、すっと前に出て立ちはだかった。  その後ろで、かすかに背広が顔をしかめる。「アホウ」とかすかに呟《つぶや》きが漏《も》れる。  何しろ、野島は体格がいい。ただ大きいのではなく、分厚い筋肉がTシャツを盛《も》り上げ、ズボンの太ももははちきれんばかりだ。  ケンカを売りたい相手ではない。  だが、もはや遅《おそ》い。彼らに、売ってしまったケンカを引っこめるという選択肢《せんたくし》は存在しない。 「おうおう、何とか言ったらどうだ?」  自分の勇《いさ》み足に気づかず、チンピラは何度も顎《あご》をしゃくるようにして、野島に絡《から》んでいる。 「おぉっ?」  語尾《ごび》を跳《は》ね上げつつ、チンピラの靴《くつ》が野島のつま先を踏《ふ》んだ。  どすん。  重い音が響《ひび》いた。無言のままふるった野島のショートアッパーが腹にめりこんだのだ。 「うげっ」  たまらず、チンピラはくずおれた。それを合図に残る三人がさっと分かれ、野島を囲む。  教授は、その後ろで頭を抱《かか》えこんだ。神河は、と見れば、顔色が今度こそ真《ま》っ青《さお》になっていた。 「てめえから、しかけてきたんだからな」  ストライプの背広は、懐からそれを取り出した。一見して、棒切《ぼうき》れのように見える。あるいは、短めの木刀《ぼくとう》か。  すでに、手下《てした》は三人とも、伸《の》されて地面に転《ころ》がっている。  振り回しただけの拳や、タイミングのめちゃめちゃなタックルは通用せず、頭突《ずつ》き、肘打《ひじう》ちでふらつくところへ顔面パンチ、倒《たお》れたら容赦《ようしゃ》なく蹴《け》り。  ものの数秒ずつで片付《かたづ》けられた。  背広は棒切れを両手でささげ持つように上げた。かすかに湾曲《わんきょく》していることが、それでわかる。  すっと、両腕《りょううで》を開く。ギラリと白い光が漏れた。  見守るやじ馬の中から悲鳴《ひめい》が上がる。  ゆっくりと匕首《あいくち》を抜《ぬ》いていく。  さすがに、野島は一歩下がった。刃物《はもの》相手にやりあった経験はない。 「いまさら、逃《に》げんじゃねえぞ」  声に凄味《すごみ》を利かせ、ヤクザは逆に一歩出る。しょせんは体力|自慢《じまん》の素人《しろうと》だ。後は、どうやって謝らせるかだ。傷害でパクられるのは本意ではない。 「てめえから、売ってきた喧嘩《けんか》なんだからな。ああ!?」  大声で叫《さけ》ぶ。やじ馬に、そして、どうやら連れらしい後ろの二人——ずんぐりむっくりの中年と青い顔の眼鏡《めがね》——に聞かせるためだ。 「どうオトシマエつけてくれるんだ?」  さらに一歩。  相手の両手が上がろうとするのを見て、ヤクザはやっと勝ったかと、心の内で安堵《あんど》する。  だが、そのとき、その声は聞こえてきた。  ……人が呼《よ》ぶ。  静かな声だ。  ……心が呼ぶ。  低い。  だが、周囲のざわつきにもかかわらず、それははっきりと聞こえてくる。  ヤクザはあたりを見回す。そして、やじ馬の輪の中に、途切《とぎ》れた部分を見つける。  人垣《ひとがき》が両脇《りょうわき》に避《さ》けて、道を開いている。  そこを一人、歩いてくる。帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、マントで全身を覆《おお》って。  小さい。身長は百六十センチあるかないかだろう。男か、女かは判然としない。  ……戦えとボクを呼ぶ。  低い声は、そいつが発しているのだろう。だが、すぐ耳元で囁《ささや》かれているように聞こえる。  ……心を知るために。  とうとう、そいつは目の前まで歩いてきた。ヤクザと野島の間で、恐《おそ》れたふうもなく立ち止まった。うつむき加減の顔は、帽子に隠《かく》れて口がかろうじて見えるだけだ。 「何だ、てめえ?」  ヤクザは空《あ》いた左手でそいつの帽子に手を伸ばした。  パン。  軽い音とともに、その手が払《はら》われる。 「てめえ」  背広のヤクザは睨《にら》みつけた。 「オレを誰《だれ》だと思ってる?」  右手の匕首《あいくち》を突《つ》きつける。  ようやく、小柄《こがら》な闖入者《ちんにゅうしゃ》は顔を上げた。そして、帽子《ぼうし》をさっと横に放り投げた。 「何だぁ?」  ヤクザの顔が嘲《あざけ》りに歪《ゆが》む。現われた顔はまだローティーンの少年のものだった。ただ一つ、特徴的《とくちょうてき》なのが右目にはめられた片眼鏡《かためがね》。  夜の明かりの中で、それは、皮膚《ひふ》に埋《う》めこまれているように見えた。  少年は、マントも脱《ぬ》ぎ捨てた。鋲《びょう》の目立つ黒い革《かわ》のツナギ服。ただし、左肩《ひだりかた》から先の袖《そで》と、ズボンの右脚《みぎあし》側はない。現われている左腕、右脚は、無機質の白色。どうやら、地肌《じはだ》ではない。もう一枚、身体《からだ》にぴったりとした白い革のツナギを着ているのだろうか。ブーツは左が黒、右が白。服と一体化しているのか、継《つ》ぎ目は見えない。黒い手袋《てぶくろ》は両手。拳《こぶし》だけを覆《おお》って、指先が見えるオープンフィンガー・グローブだ。 「え?」 「あれって……」  周囲でざわつきが広がる。その少年を少なからぬ人間が知っていた。 「�ウィル�……だ」  教授の横に立つ神河もまたその一人。思わず、呟《つぶや》きが漏《も》れた。 「お知りあいですか?」  茫然《ぼうぜん》と眺《なが》める神河に教授は尋《たず》ねた。 「いや……そうじゃないです。何て言うか……あれは、漫画《まんが》のキャラクターなんです」 「漫画?」 「ええ。週刊の少年誌の。アニメにもなってます」 「はあ……」 「コスプレ、でしょうか?」 「こすぶれと言いますと?」 「漫画なんかのキャラクターの格好をするんですよ」 「はあ、アレですか。仮装《かそう》行列みたいな」  教授はうなずいた。そういえば、かなたにも、聞いたことがある。 「なりきりってやつですね」 「ええ。あの台詞《せりふ》も、漫画の決め台詞です。どこかで聞いたと思ったんだ」 「じゃあ、あの、まさか、とは思うんですが、ひょっとして、彼」 「かもしれません。ウィルは、最強の戦闘《せんとう》サイボーグですから」 「冗談《じょうだん》でしょう?」  言いながら、教授は、少年に視線を戻《もど》す。 「だと思うんですが……」  神河が答える。 「でも、ウィルは、最強の戦闘サイボーグだから」  同じ言葉が繰り返された。 「ガキはお家に帰って、母ちゃ……」  ありきたりの台詞は、最後まで続けられなかった。  少年は、軽く手を伸《の》ばしただけに見えた。相手の胸にその掌《てのひら》が触《ふ》れたのは一瞬《いっしゅん》。  次の瞬間《しゅんかん》には、ヤクザは宙《ちゅう》を飛んでいた。  その距離《きょり》、数メートル。そして、背中から、落ちる。 「う、うあ……」  それきり起き上がってこない。首が、変な方向に捩《ねじ》れている。 「おお」  やじ馬の間から、ざわめきが漏《も》れる。パチパチという拍手《はくしゅ》の音さえ聞こえてくる。 「すげえな、お前」  野島が目を丸くして言う。 「助かったよ」  手を差し出す。が、少年はそれを無視して、野島の顔を正面から見すえた。 「ボクは知っている」 「は?」 「先に手を出したのはキミだ」  その声の冷たさに、野島は後じさった。匕首《あいくち》を見たときより、さらに冷たい汗《あせ》を背に感じる。 「いや、だって、あいつらはよ」  ヒュン。  風を切る音が一瞬。そこにいる誰《だれ》にも、その音を起こしたものは見えなかった。  結果だけが目に残った。  きれいに上げられた右足が野島の顔面を捕《と》らえている。身長差は二十センチでは利《き》かない。  両足の作った角度は百八十度だ。  ガクン、と野島の膝《ひざ》が折れた。次いで、上半身が回転しながら、ばったりと地に突《つ》っ伏《ぷ》す。 「野島ぁ!」 「野島君!」  神河と教授から同時に声が上がる。そして、二人はやじ馬の輪を飛び出し、駆《か》け寄る。  教授が野島を急いで助け起こす。意識はない。鼻から、そして左の目と耳から血が流れ出している。 「救急車を!」  神河が叫《さけ》ぶ。思わぬなりゆき凍《こお》りついていた人の輪から、慌《あわ》てて駆け出す人間が数人。 「やってることが無茶苦茶《むちゃくちゃ》ですよ! きみ!」  野島の頭を抱《だ》いたまま、教授は少年を睨みつけた。そして、相手の無表情さに愕然《がくぜん》とする。  チチ……ピピ……。  そして、電子音。それにつれて、少年の片眼鏡《かためがね》の隅《すみ》に、数字と文字が明滅《めいめつ》する。 「データ解析《かいせき》、完了」  少年の唇《くちびる》がかすかに動き、冷たく低い声が漏《も》れる。 「どうやら、あなたが最強の敵のようだ。来い」  言って、両手を軽く握《にぎ》って前に。ぐっと腰《こし》を落とした、空手《からて》の型を思わせる構え。 「な、何を言ってるんです?」  野島の頭を抱いたまま、教授は答える。 「来ないのか?」 「誰か! 警察!」  教授は、大声を張り上げた。  人間の空手など、どんな達人のものであっても怖くはない。妖怪《ようかい》の身体は、作りが人間とは根本的に違《ちが》う。  だが、これだけ人の目がある場所で、自分の正体を明かすわけにはいかない。  野島を一発で倒《たお》した蹴《け》りを受けて、ずんぐりむっくりの中年男が平気な顔というのは、いかにもまずい。  何より、今は野島の身体が気がかりだった。 「今は、戦う気はないということか」  少年は、構えを解いた。 「いいだろう。では、この次だ」  言い捨てて、少年は踵《きびす》を返した。  ふたたび、やじ馬が両脇《りょうわき》に避《さ》けて道を作る。うつむき加減に歩き去っていく少年は、いつのまにか脱《ぬ》ぎ捨てたはずのマントと帽子《ぼうし》を纏《まと》っていた。    2 連戦:Unbreakable Hero  ガタン。  軽い振動《しんどう》とともに、エレベーターは止まった。階数表示は、存在しないはずの五階。  そこに、 <BAR うさぎの穴> がある。  重い扉《とびら》を押し開け、教授は、足を踏《ふ》み入れた。 「どうだった?」  中にいた一人が声をかける。鷲鼻《わしばな》と鋭《するど》い目つきが印象的な、精悍《せいかん》な男だ。 「手術は一応、成功です。生命《いのち》は取り留《と》めました」 「その言いかただと、万事OKってわけじゃなさそうだな」  八環《やたまき》は眉《まゆ》をひそめた。  教授の表情は、さほど深刻には見えない。だが、それが、うわべだけのものであることを、八環は長いつきあいで知っている。ユーモラスな姿の化《ば》け土竜《もぐら》として生まれた教授は、悲しい顔をしたくともできないのだ。  かすかに寄せられた眉根《まゆね》と、沈《しず》んだ声。教授をよく知るものにとって、それが苦悩《くのう》の証《あか》しであることは明白だった。 「医者の話では、『障害が残る可能性は否定できない』そうです」 「じゃあ、残らない可能性もあるんだろ?」  別の声があがる。野島と同じ、スポーツマンタイプの青年だ。顔をすげかえて、少し筋肉を足せば、同じになるだろう。 「明るく考えようよ、教授」 「『障害が残る可能性は否定できない』ってのはね、流《りゅう》」  その青年に向きあう形で座《すわ》っていた、小太りの青年が、読み掛《か》けのコミックスを置いて、口を開く。テーブルの上にも、数十冊、山積みになっている。 「『障害が残っても、自分の責任じゃない』っていう意味さ」 「大樹君!」  その物言いに、教授は言葉を荒《あら》げた。算盤小僧《そろばんこぞう》の辛辣《しんらつ》な言葉には慣れている。ふだんなら、いちいち突《つ》っかからない。だが、時と場合によっては、教授のかんしゃくを破裂《はれつ》させて不思議《ふしぎ》ではない。 「何ですか、こんなときに漫画《まんが》なんて」 「まあまあ。持ってこさせたのはわたしだよ」  カウンターから声がかかる。温厚な顔で、グラスを拭《ふ》きながら。 「マスターが?」 「ウィルの出てくる漫画。そうだね、大樹君」 「ええ、まあ」  大樹は肩《かた》をすくめた。 「『シリコンサイト』の、既刊《きかん》四十三冊」 「一体《いったい》、どんな漫画なんです? それ? その主人公は、あんなふうに、人を殴《なぐ》って回ってるんですか?」  まだ、かんしゃくは収まりきれてないらしい。教授の言葉には、平素にはないトゲが感じられる。  つかつかと歩み寄ると、その一冊を掴《つか》む。表紙には、主人公の姿がある。それは、昨晩、教授が目撃《もくげき》したものと寸分違《すんぶんたが》わぬ格好をしていた。 「違《ちが》う、と言ったら、嘘《うそ》でしょうね。主人公は戦闘《せんとう》サイボーグですから。年中、戦ってますよ」 「何のために?」 「漫画の設定では、『人間の心を知り、それを得るため』、ですよ」 「……? よくわかりませんが?」  教授は、怪訝《けげん》な顔で問う。 「僕《ぼく》にも、もう理解はできませんね。舞台《ぶたい》はいわゆる近未来です。国は不明。地球かどうかさえはっきりしません。主人公は、戦争エリートとして幼年から教育を受けていた。それが、実戦に巻きこまれて戦死。後に、兵器としてサイボーグ手術を受けて作られた——ありがちって言えば、ありがちなもんです」  積み上げられたコミックスの中から、大樹は三冊ほどを滑《すべ》り出した。 「この最初の三巻目までは地味な話でしてね。サイボーグになったはいいが、戦争は終わってしまった。自分は、戦争のための教育しか受けていない。自分の身体《からだ》は戦うしか能がない。自分は何をしたらいいんだろう? そういう話だったんですよ。で、この巻で最初のエピソードが完結」  大樹は㈫と数字の打たれた巻を示す。 「実は、その時点で、物語のテーマは語りきっちゃってるんですよ。ところが、その後、路線が変わっちゃいましてね、これ。今じゃ、強い敵が出る、倒《たお》す。もっと強い敵が出る、倒す。この繰り返しです。ストーリーはあってなきがごとしですね」 「文句《もんく》言ってる割には、全巻持ってるのか?」  テーブルの向こうで、流が苦笑いを浮かべている。 「何となく、ね。見たら買っちゃうから。連載《れんさい》も読み続けてるしなあ」 「その少年が、本当にただの空手《からて》使いで、漫画の主人公になりきってるだけなら、問題はないんだけどね」  グラスを拭《ふ》く手を止めず、マスターが言葉をはさんだ。 「それは、人間の警察に任《まか》せておけばいい。ただ、ホームズ氏の例もある。ひょっとしたら、という気もするんだよ」 「妖怪《ようかい》だと?」  シャーロック・ホームズ。この世界で最も有名な架空《かくう》の名探偵《めいたんてい》は、その実在を強く信じ、願う人々の�想《おも》い�によって、この世界に生まれ出ている。  そして、今では、イギリスの妖怪ネットワーク、ベーカー街|遊撃隊《ゆうげきたい》の代表までも務めている。 「毎週、百万単位の人間が読んでいる漫画ですからね」  大樹がうなずく。 「だとしたら、お前も一役買ってるわけだぜ」 「そうかどうかは、興味深い命題だね」  大樹は流に答えた。 「けれど、今は、対策を考えるほうが先じゃないかな。もし、彼が妖怪だとするなら、おそらくは、『シリコンサイト』のパターンで行動してくる」 「どんなパターンだい? それこそ、強い敵が出る、倒《たお》す、また出る、倒す、か?」 「そういうことだけじゃないけどね」  大樹は苛立《いらだ》たしげに、コミックを指で叩《たた》く。 「一度取りこまれたら、脱出《だっしゅつ》は難しいかもしれない。ウィルが、『最強の戦闘《せんとう》サイボーグ』であるのには理由《わけ》があるんだから」 「通《とお》り魔《ま》事件犯人は熱狂的《ねっきょうてき》な漫画のファンか?」 「依然|停滞《ていたい》する警察の捜査《そうさ》」 「高まる緊張《きんちょう》 抗争《こうそう》に発展の可能性も」  教授は、軽くため息をつきながら、新聞の束《たば》を置いた。  視線をベッドの上に向ける。顔を包帯《ほうたい》でぐるぐる巻きにしたまま、野島は眠《ねむ》っている。  幸《さいわ》いにも回復は順調だった。不安視された障害の兆候《ちょうこう》はまだ現れていない。  もっとも、それは野島がまだベッドから起き上がれもせず、言葉も発することができないからだ。これから身体と心の機能を取り戻していく中で、いつ、どこに障害が現われるか、医者でさえ予測を放棄《ほうき》した。何しろ、頭蓋《ずがい》の広い範囲《はんい》が割れ、脳内出血を起こしていたのだ。  まだ、扉《とびら》には「面会謝絶《めんかいしゃぜつ》」の札《ふだ》が掛《か》かっている。TVや週刊誌の取材に晒《さら》されるのを避《さ》けて。急を聞いて郷里から駆けつけた野島の両親、そして妻れい子、神河、教授ら親しい者だけが入室を許されている。  あれから、ウィルは、ほぼ毎夜、盛《さか》り場《ば》に現われ続けた。  喧嘩《けんか》の場に登場しては、その両方を痛めつける。  最初に、夕刊新聞紙がその存在を取り上げ、次にTVのワイドショーがネタにした。  その直後、とある暴力団事務所に単身|殴《なぐ》りこみ、そこにいた全員を叩きのめすという、漫画としか思えない[#「漫画としか思えない」に傍点]離《はな》れ業《わざ》をやってのけたのだ。  さすがに、大手新聞では、インドネシア暴動や間近《まぢか》に迫《せま》っていると言われる、パキスタン核《かく》実験のニュースに紙面が割《さ》かれている。だが、午後のTV放送では、完全にウィルが主役になってしまった。  夜のニュースでは、識者と呼ばれる人間が、現実と架空《かくう》の世界をごちゃまぜにする風潮《ふうちょう》をしたり顔で警告し、PTAは『シリコンサイト』と、その掲載紙《けいさいし》の不買運動を起こす。一方で出版元と漫画家《まんがか》は、「事件はあくまで作品のメッセージを誤解した個人が起こしたものであり、そういう人間が現われたことは、我々にとっても遺憾《いかん》である」と、開き直りにも似た声明を発表し、掲載を続行した——出版社の読み通り、不買運動対やじ馬根性の第一ラウンドは、後者の勝利に終わったようだ。  ただし、第二ラウンドは不戦敗の恐《おそ》れが高い。掲載を強行したその日、出版社ビルで右翼《うよく》団体の発砲《はっぽう》事件が起こっている。 「どうやら、間違《まちが》いありませんか」  教授は呟《つぶや》く。聞く者はいない。いつもの独《ひと》り言《ごと》だ。  人間の起こした事件であるなら、とうに犯人は逮捕《たいほ》されているだろう。ウィルはどこからともなく現われ、どこへともなく消えている。毎回、数多くの目撃者《もくげきしゃ》がいながら、世界一を自負《じふ》する日本警察は、正体はおろか、足取りさえ掴《つか》めていない。 「もはや、まったなしですね」  教授は、再度、野島に目を向ける。静かに、青年は眠り続けている。規則正しく上下する胸のみが、彼がまだ生きていることを告げている。  ウィルに襲《おそ》われた者は、三十人を越《こ》えた。全員が、重傷を負《お》っている。いまだ、死者が出ていないほうが不思議《ふしぎ》だった。  教授は、病院を出た。廊下にしつらえられた黒い革《かわ》のソファに座《すわ》って話しこんでいた二人が、視線を向けてくる。  一人は神河、銀ブチの眼鏡《めがわ》に赤いチェックのシャツの青年。もう一人は、長いストレート・ヘアの女性。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」  神河が教授に声を掛《か》ける。 「あいつは強いんだ。今もれい子さんに話してたんですが、高校のとき、あいつは、練習中に左手を骨折したことがあるんです。親指をね」  野島と神河は同じ野球部に所属していた。一軍と二軍、エースと補欠という違いを越えて友情を築いていた。 「それで、あいつ、どうしたと思います? 監督《かんとく》には、ただのつき指だって言い張って、そのまま試合に出ちゃったんです。地区予選に」  神河は一人でしゃべり続けた。そうすれば、押《お》し寄せてくる不安から逃《に》げきれるとばかりに。 「四試合、あいつは、それで投げ続けたんです。左手だって言っても、ピッチングすれば響《ひび》きますよ。一球ごとにキャッチャーから返ってくるボールも受けなきゃいけない。でも、あいつは、投げ続けた。『諦《あきら》めたら終わりだ。諦めなければ何でもできる』って」  神河は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。 「だから、僕も諦めません。あいつは必ずよくなる。あいつ自身だって、諦めてなんかいないはずです」 「ええ、そうですね」  教授は答える。そして、脇《わき》に立つ、野島れい子に目を向ける。れい子は、深々と頭を下げ、それに教授も応《こた》えた。  言葉はない。野島れい子は、教授が人外《じんがい》のものであることを知っている。そして、恐れている。平素は、顔を合わせまいとする態度がはっきりしている。  今は、だからこそ、自分に頭を下げている。  教授は、そのまま、病院を後にした。夏至《げし》に向かう太陽が、ようやく沈《しず》もうとしていた。  新宿の空気は、やはり、いつもとは違《ちが》う臭《にお》いを発していた。それは、およそ、日本という国には似つかわしくないぴりぴりとしたものだ。  むろん、大多数を占《し》めるのは、いつも通りに歓楽に出てきた人間たちだ。  だが、それに混《ま》じり、何かを期待して集まっている若者たちがいる。取材を行なっているTVレポーターや記者がいる。もちろん、彼らこそが、もっともウィルを待ち望んでいる。  さらに、鋭《するど》い目で徘徊《はいかい》する人間の集団が二種類。メンツを潰《つぶ》されたままの暴力団と、私服・制服の警官たち。どちらもが、ウィルの身柄《みがら》を追い、そして、互《たが》いを激《はげ》しく警戒《けいかい》している。  教授もまた、その人の群《む》れの中にあった。背広のポケットには、買ったばかりの携帯電話《けいたいでんわ》がある。八環、流、大樹、そして、蔦矢《つたや》まで。人数を動員してウィルを見つけだそうとしていた。 「見つけるたけなら、簡単なんですけどね」  教授は歩きながら呟《つぶや》く。喧嘩騒《けんかさわ》ぎの一つでも起こせばいい。おそらく、それで現われるだろう。ただし、大勢《おおぜい》のやじ馬も一緒《いっしょ》になる。TVレポーターも、警官も、ヤクザも。  それではダメだ。まだ生まれたばかりのウィルには、自分の正体を隠《かく》そうという考えがない。そして、としての力を使わずに、�戦闘サイボーグ・ウィル�と対峙《たいじ》するのは不可能だ。  わっ。  少し離《はな》れた場所であがった喚声《かんせい》に、教授は、はっと顔を向けた。 「喧嘩だ!」  誰かが叫《さけ》んでいる。  教授は、じっとそちらへ顔を向ける。  怒号《どごう》、足音、そういったものが乱雑に聞き取れる。そして、それが集合しようとする中心で、かすかにののしり合う声を、やっとの思いで聞き分ける。 「同じことを考えた人がいるということですね」  教授は、苦々《にがにが》しく呟く。それが、自分の仲間であるはずはない。芸能記者か、暴力団員か、手っ取り早くウィルを呼び寄せるための狂言《きょうげん》だろう。 「行ってもしかたない……」 「そう。ボクは、あなたと戦うのだから」  背後から独《ひと》り言《ごと》に答えてきた声に教授は、あっと振《ふ》り向く。  そこに帽子《ぼうし》を目深《まぶか》にかぶり、マントを羽織《はお》った少年の姿があった。 「待っていた」  ウィルは、ゆっくりと言葉を吐《は》く。 「今から、ここでいいか?」 「待っていた? わたしをですか?」 「そうだ。言ったはずだ。あなたが『最強の敵』だと」 「どういうことです?」 「ようやく戦う気になってくれたんだろう?」  教授の問いに答えず、ウィルは帽子のひさしに手を当てる。 「待ちなさい!」  教授は、慌《あわ》てて制した。 「わたしは戦うつもりはありません。ただ、あなたに話したいことがあって……」 「戦わない?」  ウィルは顔を上げた。明らかな侮蔑《ぶべつ》の表情がある。 「それだけの力を持っていて?」 「なぜ、戦わなきゃいけないんです?」  言っておいて、教授は、気づいた。その言葉が、あまりに心もとないことに。  相手は生まれたばかりの若い妖怪だ。そして、若ければ若いほど、妖怪は、己《おのれ》が生まれた「理由」に縛《しば》られる。  大樹の言葉が思い出された。  ウィルは、戦うために作られ、戦うしか能がない。 「今はダメです。ここでは」  とにかく、人の目を避《さ》けなければならない。教授は、相手の土俵《どひょう》に乗らざるをえなかった。 「では、いつ? どこで?」  ウィルは、感情のない言葉で問うた。 「それだけは、今、ここで、決めてもらうよ」 「軽率《けいそつ》と言えば、軽率だったが」 <うさぎの穴> のカウンター奥で、マスター井神《いかみ》松五郎《まつごろう》はグラスを拭《ふ》きながら、うなずいていた。 「少なくとも、今晩は彼の無茶《むちゃ》は防げたわけだ」 「今ごろ、特訓しているかもしれませんね」  大樹が答える。 「特訓?」  その奇妙《きみょう》な言葉に流が反応した。 「何、それ?」 「彼は、日々人間には考えられないような訓練をしている。そして、強い敵と戦う前には、さらにハードな特訓をするんだよ」 「戦闘《せんとう》サイボーグじゃなかったのかよ?」 「そうだよ」 「意味あるのか?」 「作品の中ではね。彼は、身体《からだ》の中にナノマシンを組みこんでいる。ナノマシンってのは、百万分の一ミリメートル単位の分子機械なんだが、怪我《けが》をしても、こいつがウィルを治してくれる。人間で言えば、自然|治癒《ちゆ》にあたるんだが、スピードが違う。あっという間だ」 「えらく便利な設定だな」 「便利過ぎて、笑っちゃうね。しかも、そいつは、いつの間にか、ウィルの能力を強化することもできるようになっちゃってる。特訓で身体を痛めつければ、超《ちょう》回復するんだ」 「だから、特訓かい?」 「そういうこと。言っておくけど、戦闘で負傷してもやらかすからね、それ。だから、無敵。一度受けた攻撃《こうげき》には、防衛機構が自動的に備わるしくみだ。ひょっとしたら、力押しじゃ勝てないかもね」  大樹の声はおどけている、が、不機嫌《ふきげん》さが隠《かく》せない。 「そんな身勝手な設定が通用するんなら、変身|超人《ちょうじん》ちは無敵だろ?」  ウルトラマンに始まり、仮面ライダーから宇宙|刑事《けいじ》などなど、子供の夢から生まれた妖怪《ようかい》たちは、かなりの数に上っている。 「実際には、その中に教授に勝てるやつが何人いる? ああ見えて、教授は怒《おこ》らせると怖《こわ》いぜ」 「それはわかっている。彼らは例外なく若いからね。でも、その若さに似あわない強さを持っているのも事実だ」  大樹は答える。 「それだけ、信じる人が多いんだ。メディアが発達しているから、昔と違って、同じものをみんなが信じる。そして、『シリコンサイト』は、毎週百万単位で読まれている。昔じゃありえないことだろう?」 「百万人読んでるうちの何人が信じてる?」 「そう、単に、『シリコンサイト』のファンたちが作り出したんなら、そんなに恐《おそ》れることはない。けれど、根底が、もっと大きなものだとしたら。たまたま、具現するのにウィルを選んだだけだとしたら。教授はおろか、僕《ぼく》たちみんながかかっても勝てない可能性がある」 「もっと大きなもの?」 「うまく言えないんだ。ただ、いやな予感がする」  大樹はふうとため息をついた。 「取り越《こ》し苦労ならいいんだけどな……」    3 挑戦:Game of Death  一九九八年五月二十日深夜。  渋谷《しぶや》区|代々木《よよぎ》公園。  それが、教授が指定した日時と場所。  ずんぐりむっくりの身体《からだ》が公園に立っている。  そこから、わずかに離《はな》れた立ち木の陰《かげ》に、長髪《ちょうはつ》の青年——蔦矢——がいる。その立ち木の枝《えだ》には、八環がすでに上っている。  公園に面した道路には、おんぼろのフォルクスワーゲンと、ミラが連なって駐車《ちゅうしゃ》している。ワーゲンに、大樹と流。ミラには、——人払《ひとばら》いの結界のために呼《よ》び出された——朧《おぼろ》孝太郎《こうたろう》。 「これで来なければ、大マヌケだな」  両手を頭の後ろに組んでシートにもたれかかり、流が大樹に話しかける。 「来るさ。ウィルにとっては、強い敵と戦うことが自分の存在証明なんだから」 「強迫観念《きょうはくかんねん》、か?」 「そう。ウィルは教授を好敵手《ライバル》と認めた。だから、何をおいても戦いにくる。問題は、その後だね」 「教授が痛めつけて、おしまい、だよ」  軽く肩《かた》をすくめたと思うや、流はぴくりと身体をふるわせた。 「来たようだな」  ヘッドライトはつけていない。街灯の明かりの中に、帽子《ぼうし》とマントの小柄《こがら》な影《かげ》が歩いてくるさまが見える。  同時に、静かな声が、ワーゲンの中まではっきり聞こえてくる。  ……人が呼ぶ。  ……心が呼ぶ。  ……戦えとボクを呼ぶ。  ……心を知るために。  帽子とマントが宙に舞《ま》った。ぐいと腰《こし》を落とし、ウィルは構えを取る。 「わたしは、戦うつもりはないんですよ」  教授は、両手を広げてみせた。 「あなたは、まだ幼《おさな》い。知らなければならないことがたくさんある」 「だから、戦う」  ウィルは答える。 「戦いを通じて、ボクは心を知ることができる。恐《おそ》れと、不安と、悲しみを。戦いを通じて、ボクは相手と会話をする」  低い構えのまま、ウィルはすり足でにじり寄る。  すっと左手が上がり、無防備な教授の胸に伸《の》びる。  軽く触《ふ》れたと思った瞬間《しゅんかん》、教授は凄《すさま》じい衝撃《しょうげき》を受けた。数メートル飛ばされて教授はひっくり返った。 「始まっちまったか!」  流はワーゲンの取っ手に手をかけ、ぐいと引く。が、びくともしない。 「おい!」  流は怒鳴《どな》った。ワーゲンのコンソールに向かって。 「開けろって」 「教授一人で十分なんだろ?」  大樹がすまし顔で言う。 「きみはここにいろって。ワーゲンがきみを出さないのは僕が頼《たの》んだからだよ」 「どういうつもりだ?」 「流は、ウィルの戦いを見ているんだ。僕が解説してあげよう。あれは、発頸《はっけい》。まだサイボーグになる前に、彼は一通りの格闘技《かくとうぎ》を教練で学んでいた。中国|拳法《けんぽう》も、例外じゃない」  教授は手をついて立ち上がろうとする。そこへ、ウィルが走りこむ。  その眼前に、忽然《こつぜん》と土の壁《かべ》が立ち上がる。ウィルは、タンとそれを軽く蹴り、そのまま後方に一回転して立った。着地の瞬間には、ふたたび構えを取っている。 「教授が逃げたか。まだ、戦う気になれないらしいけど……説得は無理だろうな」 「わかっているなら、ここから出せ!」 「今は、見学だ。戦いたければ、後」 「呑気《のんき》なことを言っている……あっ」  ウィルが壁の上に飛び上がる。同時に壁が消滅《しょうめつ》する。宙に残されたウィルをすぐに重力が捕《と》らえて引きずり下ろす。  猫《ねこ》のように俊敏《しゅんびん》に身を捻《ひね》り、ウィルは足から着地。立ち上がったばかりの教授の眼前だ。  右脚《みぎあし》が白い軌跡《きせき》を残して振《ふ》り上がる。教授はでくのようにそれを頭に受ける。マネキンのように——いささか、スタイルに問題はあるが——教授は飛ばされた。 「間合《まあ》いを詰《つ》められちゃな。土で壁を作るのも間に合わない。教授の弱点だね」 「いい加減にしろよ」  流は大樹の胸倉《むなぐら》を掴《つか》む。 「おい、ワーゲンさんよ! 俺《おれ》を出せって!」 「意味もなく、こんなことはやってないつもりだよ。ウィルを見ていろ。また仕掛《しか》けたぞ」  疾風《しっぷう》と呼ぶに値する動きだった。ふらふらと教授が立ち上がった眼前でジャンプ。あっと振り仰《あお》いだところへ、空中から舞い下りる。両肩《りょうかた》をそれぞれの手で握《にぎ》り、体重を乗せた左膝《ひだりひざ》が顔面へ。  二人の身体《からだ》がもつれながら、どうと倒《たお》れる。工夫もなく、ばったりと倒れた教授に対し、ウィルは身体を丸めて転《ころ》がる。そのまま、背後に回って脇《わき》の下から腕《うで》を絡《から》めた。 「関節技だね。格闘技を極めているという以上、打撃技だけじゃすまない」  ゴキリという音が響《ひび》いた。同時に二人の身体が離れる。腕を押さえてうずくまる教授に対して、ウィルは、さっと立ち上がり、構えを取る。視線は、はずさない。 「まだ、戦えるだろう? 腕の一本や二本、あなたならどうということはないはずだ」  冷酷《れいこく》な少年の声が響く。 「くわあ」  その声をかき消すように、奇怪《きかい》な声が響いた。 「八環さんが、切れたか」  大樹は身を乗り出した。 「これで、わかる」 「何がだよ?」  その宿を掴み、流が強引に振り向かせる。 「ウィルの実力だよ。そこいらの変身|超人《ちょうじん》クラスなら、蔦矢もいる。三人がかりなら、負けないよ。でも、本当に強かったとしたら、あそこに流、きみが加わっても勝てやしない」 「やってみなければわからないだろ!」 「そういうと思ったよ。だから、流に残ってもらったんだ」  大樹は言い返す。 「ウィルは、たぶん、『シリコンサイト』の法則に従《したが》っている」 「法則?」 「あれだけ暴れ回って、まだ死人が出ていない」  大樹は答える。視線を戦場に戻《もど》しながら。 「教授は一方的にやられてるのは見ただろう。実際、あの身体を鍛《きた》えてた野島君が一蹴《ひとけ》りで重体だよ。彼が本気で戦ってきたのなら、今ごろ、ふつうの人間は、何人か死んでておかしくない」 「手加減してたってのか?」 「本人には、そのつもりはなかったろうけどね。でも、『シリコンサイト』の中じゃ、人はめったに死なないんだ。ウィルの仲間にせよ、敵にせよ。死んだはずが、次のエピソードになると、『実は生きていた』『何かの理由で蘇《よみがえ》ってきた』。その繰り返しだ」 「それとこれと、何の関係があるんだ?」 「ウィルは『シリコンサイト』の法則に従《したが》っている、ということさ」  一瞬《いっしゅん》、甲高《かんだか》い音が響いた。  同時に、ウィルは後方へ飛ばされた。背中から地面に叩《たた》きつけられる。  くるん、と、回って立つ。動作に淀《よど》みはない。  その胸に一筋《ひとすじ》、深い傷が開いている。左肩から右脇へ。  烏天狗《からすてんぐ》の正体を現わした八環の巻き起こしたつむじ風。それが、かまいたちとなって、ウィルの胸を引き裂《さ》いたのだ。  血とおぼしき液体が、そこから激《はげ》しく流れ落ちる。 「仲間がいたのか」  負傷をかまいもせず、ウィルは中空に舞《ま》う八環に目を向ける。かすかな電子音が流れ、その片眼鏡《かためがね》に解析《かいせき》データを示す文字が明滅《めいめつ》する。  ざざあ。  再《ふたた》び、風が舞う。  ウィルは、風の吹《ふ》いてくる方角へ顔を向けなおす。風に乗って、何かが舞っている。  無数の木の葉だった。その縁《ふち》が、剃刀《かみそり》の鋭《するど》さとなって、ウィルに襲《おそ》いかかる。  咄嗟《とっさ》にウィルは両腕を交差《こうさ》させ、顔を庇《かば》う。木の葉の群《む》れが、音を立てながら、それを通り過ぎる。  ウィルは倒れない。全身を切り刻まれ、数えきれない裂傷《れっしょう》を負《お》いながら、立ち続けた。  木の葉が過ぎ去った後、顔を上げる。 「まだ一人いたか」  ピピピ……。  蔦矢を視界に捕らえると同時に、電子音が復活する。  横で地面が盛《も》り上がった。吹き上がった土が、巨大《きょだい》な鉈《なた》の刃《やいば》となり、水平に走る。  ついに、教授も説得を諦《あきら》め、攻撃《こうげき》に転じたのだ。  ウィルは跳躍《ちょうやく》してかわそうとする。が、一瞬、間に合わなかった。地を蹴《け》り、伸びきった左脚を大地の刃が襲う。そして、膝《ひざ》から下を断ち切る。  ウィルの身体が空中できりきりと回転する。そこに、再度のかまいたち。左の脇腹《わきばら》がざっくりと切れる。 「解析完了……バトルモード・シフト」  風がうなり、大地がおたけびをあげる中、その静かな、低い声が、全員の耳にはっきり聞こえた。  ウィルは、右脚一本で難なく着地した。その脚と左腕——露出《ろしゅつ》していた部分だ——が、色を白からまばゆい銀色に変えている。  切り落とされた左脚、そして裂かれた左の脇腹からは、まだ出血——厳密には血とは言い難《がた》いが——している。が、胸の傷、そして蔦矢の木の葉で受けた無数の小さな傷は早くも塞《ふさ》がろうとしている。  たん。  右脚が大地を蹴る。同時に、背後を木の葉の群れが駆《か》け抜《ぬ》ける。蔦矢の攻撃を瞬時の差でかわしたのだ。  地面すれすれに跳《と》びながら、ウィルは切り落とされた自分の左膝から下を拾い上げていた。再度地面を蹴って、空中に跳び上がりつつ、傷口を合わせる。  地面から大地の刃《やいば》が追う。ウィルは、身を捻《ねじ》りながら、右手を拳《こぶし》にする。そのまま、腕を振《ふ》るって叩《たた》きつけた。  凄《すさま》じい音がした。人差し指と中指の間から、半《なか》ば以上、刃は拳に食いこんでいる。が、そこで止まっている。それを中心にウィルの身体が回転する。右脚が刃の側面を蹴る。血の尾《お》を引きながら、ウィルは地上に戻った。右脚で着地、ついで左脚が地を踏《ふ》む。切断されたはずのそれが、すでに接合を果たしている。 「くわあ」  空中から八環のおたけび。ついで、目に見えぬ空気の渦《うず》がウィルを襲《おそ》う。  ウィルがステップを踏む。半身になった彼の鼻先を風が駆け抜け、地面に亀裂《きれつ》を作る。  左手が手刀の形を作って、上がる。その人差し指から一条《いちじょう》、銀色の光が発する。  狙《ねら》い過《あやま》たず、それは槍《やり》となって、八環の胸を貫《つらぬ》いた。 「ウィルがバトルモードにシフトした」  ワーゲンの中で、大樹が流に教える。 「ナノマシンの稼働率《かどうりつ》が一五〇パーセントアップする。同時に、超伝導《ちょうでんどう》イオン水流ブレードが使えるようになる。水を超高速・超高圧で射《う》ちだして、剣にするんだ」 「呑気《のんき》に解説している場合かよ」  流は、がちゃがちゃと取っ手を引く。が、頑《がん》として、ワーゲンはドアを開けようとしない。 「くわあ」  八環は吠《ほ》えた。烏天狗《からすてんぐ》に変わった顔では、人間の言葉は使えない。  胸を貫いた水流は、そのまま横へ振られた。長大な、そして恐《おそ》ろしく切れるメスは、八環の身体をやすやすと切り裂いた。  きりもみになって烏天狗は墜落《ついらく》を始める。必死に、翼《つばさ》を羽《は》ばたかせ、大地に激突《げきとつ》する寸前、体勢を立て直し、宙《ちゅう》に戻《もど》る。  地上では、木の葉の群れと大地の刃が二方向からウィルを襲《おそ》う。かたほうは水平に、かたほうは垂直に。  かわした。  斜《なな》めに跳躍し、空中で身体を抱《かか》えこみ、ウィルは十字に迫《せま》る攻撃を両方とも無為《むい》にした。  脚《あし》を上、頭を下。反転した状態でウィルは周囲を確認する。空中の敵は姿勢を整えたばかり。地上の敵二人は、自分を目で追っている。近いのは、ずんぐりむっくりのほうだ。  腕《うで》が振られる。地面を切り裂きながら、高圧の水流が教授へ向かう。  弧《こ》を描《えが》く死の刃は、教授の胴体《どうたい》を両断した……かに見えた。 「新たな能力を確認」  ウィルの唇《くちびる》から呟《つぶや》きが漏《も》れた。教授はありとあらゆる物質を透過《とうか》する能力を持っている。ウイルが射《う》ちだす水流も、生命のない物質に過ぎない。必殺の水流ブレードは、何の手ごたえもなく、教授の身体《からだ》を通り過ぎた。  着地へ移ろうとするウィルの元へ、蔦矢の伸ばした蔓《つた》が伸《の》び、絡《から》みつく。動きを止めた戦闘《せんとう》サイボーグに、かまいたちが、木の葉が、そして土の刃が襲いかかる。  ウィルの身体は切り刻まれ、四散《しさん》した。頭と右腕、胸と左腕、腰《こし》と右脚、そして左脚のみ。 「ウォーモード・シフト」  その姿になってなお、ウィルは戦闘力を失っていなかった。    4 決戦:Double Dragon  ウィルの身体は、ばらばらに地面に落ちた。落ちながら、その色が再度変化する。今度は、銀色から漆黒《しっこく》へ。  右手が大地にかかる。片腕《かたうで》だけの奇妙《きみょう》な腕立て伏《ふ》せ。その体勢から、右腕が伸びる。反動で一気に飛ぶ。拾われた胸と左腕が首に着いたとみるや、瞬《まばた》きする間に一体化していた。  再《ふたた》び、腕がたわんで、腕立ての姿勢を取る。そこに、木の葉の群れが襲いかかる。が、気にした様子もなく、ウィルは飛んだ。腰と右脚のある場所へ。  移動に無駄がない。パーツを集め、瞬時《しゅんじ》に繋《つな》いでいく。  最後のジャンプ。飛び先は左脚。むろん、戦う三人がそれを予想してないわけはない。さっきと同じ、三重の攻撃。  ……だが、ウォーモードのウィルは、それを今度はすべて受けきってみせた。妖怪《ようかい》たちの攻撃は、すべて、彼の身体をわずかに傷つけただけで止められていた。  左腕が伸ばされ、教授に向かって水流が射ちだされる。そして、今度のそれは、教授の透過を許さなかった。ウィルの能力は、戦いの中で進化したのだ。  血しぶきをあげながら、教授は仰向《あおむ》けに倒《たお》れていった。 「いいかげんに開けないと、お前から叩《たた》き壊《こわ》すぞ!」  流はワーゲンの車内で叫《さけ》んだ。  同時に、今までぴくりともしなかったドアが勝手に開く。 「……ようし」  指をばきばき鳴らしながら、片脚を踏《ふ》み出す。 「きみが、最後の切り札《ふだ》だからね」  背中に大樹が声をかける。 「見たとおりだ。ウィルのウォーモードは、僕《ぼく》たちの力を凌駕《りょうが》している」 「らしいな」  ぴくりと身体を震《ふる》わせ、流の脚《あし》が止まる。 「で、勝つ手は?」 「一対一で戦うことだと思う。そのために、今まで待ってもらったんだ」 「なんでだ?」 「言ったろ、ウィルは『シリコンサイト』の法則に支配されているって。大勢で一人に立ち向かうなんて、しょせん雑魚《ぎこ》のやることなんだよ。あの漫画《まんが》では」 「じゃあ、一対一なら……」 「勝てるかもしれない。ウィルが結局|誰《だれ》も殺していないように、その力はセーブされる可能性がある。ちゃんとした戦いになるようにね。流に残ってもらってたのは、一番、そういうのに向いた性格をしてるからだ」 「予想どおりってことか?」 「保険だったんだよ。勝ち目はある。見た目がすべてじゃない。ウィルの体力は確実に落ちている。ああやって、身体を繋いでいったのは、『シリコンサイト』にそう描かれているから、というだけだ。本当に回復しているわけじゃない」 「ほかにアドバイスは?」 「奥《おく》の手をしょっぱなから使わないこと。トドメだけにするんだ。ウォーモードのウィルのナノマシン稼働率《かどうりつ》は一千パーセント。つまり、ふだんの十倍、バトルモードに比べても三倍だ。半端《はんぱ》なダメージじゃ、『超回復』の口実を与えるだけだ。次には、あの三人の攻撃《こうげき》や、教授の透過能力と同じように、覚えられて、対抗《たいこう》される。ウィルが知らずセーブしている力をフルに発揮させてしまう。それをさせないように、一発、一瞬《いっしゅん》で倒すんだ」 「うまくいくんだろうな?」 「昔、何かの小説で読んだ手だけどね。間違《まちが》っちゃいないと思う」 「わかった」  うなずいて、流は戦いの場に降り立った。 「新たな敵を確認」  漆黒《しっこく》の身体をウィルは流に向けた。黒目が消え、白いガラスのようになった瞳《ひとみ》が流を見つめる。電子音が冷たく流れる。  腰《こし》を落とし、構えを取って、流を待ち受ける。  流もまた、半身になって構えた。が、ウィルに比べれば、腰高で、ガードが甘《あま》く見えるのは否《いな》めない。 「おりゃ」  間合《まあ》いを詰《つ》め、流は回し蹴りを放つ。さほど脚は高く見えないが、身長差がある。軌道《きどう》はウィルの頭へ。  両腕《りょううで》を上げ、ウィルはブロックする。拳《こぶし》は開かれている。蹴り脚を掴《つか》もうというつもりだ。  掴めなかった。半龍《はんりゅう》半人の蹴りは、ブロックごとウィルを蹴り倒した。 「なるほどね。セーブされてる、か」  流はうなずく。人型のままでは、流の力は完全ではない。本来なら、今の蹴りを受けて、倒れるようなタマではあるまい。 「データに修正」  ウィルの呟《つぶや》きが漏《も》れる。立ち上がろうとするところへ、さらに流が襲いかかる。今度はローキック。  膝立《ひざだ》ちの脇腹にめりこむ。それをウィルは脇に抱《かか》えこむ。 「修正完了」 「やばいかな」  呟いた瞬間、流の膝を抱えたまま、ウィルがスライディングで、脇を滑《すべ》り抜《ぬ》けた。そして、回転。流の膝は掴まれたままだ。 「おわあ」  たまらず、流は前のめりに倒れた。 「いちちち……。格闘技《かくとうぎ》ったって、こりゃプロレス技《わざ》だろう。このやろう、何でもアリか……だああっ!」  流は痛みに悲鳴《ひめい》を上げた。うつ伏せにされたまま、背後で足首を取られている。ウィルの肩《かた》と両手で、がっちりと極《き》められている。 「遊んでる場合か!」  ワーゲンを下りた大樹が叫んでいる。 「わかった、わかったよ」  びりびりと流のシャツとズボンが破れる。その下から黄金に輝《かがや》く鱗《うろこ》が現われる。取られた足は、鉤爪《かぎづめ》に変わった。それが、ウィルの頭を掴む。  ごおおお。  全長五メートルの龍と化し、流は空へ駆《か》け昇《のぼ》った。ぐるり、と輪を描《わ》く。その勢いで、ウィルを地面に叩《たた》きつける。  流の後身がうねり、地面を叩く。鉤爪はウィルの頭を掴んだままだ。人形《にんぎょう》のようにウィルの身体《からだ》がはずむ。  突然《とつぜん》、足の感触《かんしょく》が軽くなった。蛇《へび》のように身体をくねらせ、流は後ろを見る。自分の鉤爪はまだ、相手の頭を掴んだままだ。  だが、身体がない。跳《は》ね飛ばされて飛んでいる。 (ようし!)  流は鉤爪に力を込める。頭を振《にぎ》り潰《つぶ》さんと。 (うんぐわあっ!)  その足に激痛《げきつう》が走った。思わず、力が抜けて、掴んでいた頭を離《はな》してしまった。痛みにかすむ目の端《はし》で、流は、ウィルの首のない胴体《どうたい》から、左腕が伸《の》ばされているのを見る。 (都合《つごう》のいい身体してやがって!)  水流ブレードが、流の身体を裂《さ》く。頭がないために、狙《ねら》いはめちゃめちゃだ。だが、振《ふ》り回されるブレードは長い、そして、速い。ひゅんひゅんと風を切る音が渦巻《うずま》く。  流は上空に逃げた。その一方で、ウィルは頭を拾い上げる。そして、繋《つな》ぐ。 (ほんっとうに、見た目のことだけなんだろうな!)  流は吠《ほ》える。それは、龍のおたけびだ。  ブレードが振られる。鱗が裂ける。  かあっ。  流は地に頭を向ける。開いた口から、激流《げきりゅう》がほとばしる。ウィルのそれほど遠くはない。圧力も少なかろう。しかし、量が違《ちが》う、そして、流は上から下だ。  鉄槌《てっつい》と化した水が、ウィルを叩く。地面に押し潰す。ブレードがあらぬ空間を裂く。  激流でウィルを捕《と》らえたまま、流は地に向かって駆ける。間合いに捕らえた瞬間、鉤爪を振るう。  ウィルは飛ばされた。漆黒《しっこく》の身体が、地面に二度、三度とバウンドする。 「データに……修正」  呟《つぶや》くウィルをさらに、鉤爪《かぎづめ》が襲《おそ》う。今度はフックではなく、アッパー。ウィルの身体が宙に浮《う》く。  鉤爪。上から下へ叩《たた》きつける。地面にぶつかって、肩がぐしゃりと潰れる。  立ち上がらんとするところへ、流の爪が襲いかかる。左右から、容赦《ようしゃ》なくウィルを叩く。  一発、二発、四発、十発。 「修正完了」  流は、自分の鉤爪が捕らえられたことに気づく。ウィルの両手が、それぞれで自分の手首を掴んだことに。  胴体《どうたい》がうねり、逃《のが》れようと暴れる。が、びくともしない。  ぎりぎりぎり。  ウィルの両腕が開かれる。もはや、流の鉤爪は意味をなさない。  かあっ。  流の口が開いた。 (これで、どうだ!)  青白い電光が至近距離《しきんきょり》で炸裂《さくれつ》した。  轟音《ごうおん》が響《ひび》く、空気が焼ける。電光が、ウィルの身体をそぎ取ってゆく。 (死ねよ!)  流は容赦しなかった。ウィルを蒸発させるべく、全力で稲妻《いなずま》を吐《は》き続ける。  ウィルの右脚が折れる。プラズマの中で、塵《ちり》と化す。  ついで、左脚も。ウィルは両手で流の鉤爪を握ったまま、下半身から消滅《しょうめつ》していく。  が、流は見た。  ガラスのような白目に、黒い瞳《ひとみ》が戻《もど》ってくることに。  ウィルの唇《くちびる》がかすかに動いた。 「レイジモード・シフト」 (まだ、あんのかよ!)  次の瞬間《しゅんかん》、極限まで引き伸ばされていた流の両肩が、いやな音を立てて脱臼《だっきゅう》した。  流が身を振《ねじ》り、電光がずれたその瞬間、ウィルは流の背に回っていた。  その腕が流の首に回され、そして、ねじる。電光は、目標を失い、無意味に四方に舞《ま》う。  流は、急速に視界が暗くなっていくことに気づく。だが、もはやどうしようもなかった。  そして、失神《しっしん》した。  ……う。……ゅう。……りゅう。 「おい、流!」  自分を呼《よ》ぶ声に、流ははっと目を覚《さ》ました。  大樹が覗《のぞ》きこんでいる。 「てめえ!」  起き上がろうとして、激痛《げきつう》が全身を襲《おそ》った。  再《ふたた》び、流はばったりと倒《たお》れる。大の字のまま、大樹を睨《にら》みつけた。 「いいかげんなこと言いやがって」 「切り札《ふだ》が早過ぎたんだ。レイジモードに先にシフトさせておけば、何とかなったかもしれない」 「そんな余裕《よゆう》がどこにあったよ」  もはや、起き上がろうとする努力を放棄《ほうき》し、流は答えた。 「完敗だぜ」 「……だね」 「で、あいつは?」 「どこかに行ってしまったよ。戦いは終わったから。……やっぱり、あれには、勝てないんだろうな」  大樹は、ぺたんと腰を下ろした。 「ウィルは形に過ぎないんだ。あれは、『人間は努力すれば、どこまでも強くなれる』ってやつなんだ」 「なんだって?」 「どこまで努力しても限界はない。どんな障害があっても、諦《あきら》めさえしなければ、乗り越《こ》えられる。自分はダメでも、本当の天才なら。それが、百パーセントのことをしたら。そんな感情の受け皿《ざら》に、『シリコンサイト』っていう漫画《まんが》が適合してしまったんだ」 「本当ですか、それは?」  いつの間にか、教授が隣《となり》に歩いてきていた。八環と蔦矢も苦い顔で見つめている。 「推測ですけど。そうでないと、あの強さは成り立たないんですよ。いくら人気があるったって、『シリコンサイト』なんて、ありふれた漫画なんですから」  大樹はふうとため息をついた。 「ありふれてるからこそ、受け皿になっちゃったんだろうけど」 「で、これからどうするんだよ?」  地面から流が尋《たず》ねる。起き上がってくる気配はない。 「放っとけるか?」 「打つ手はないよ。強過ぎる」 「ねえ、大樹君」  教授が口をはさんだ。 「この先、彼がどれほど成長するかは、わかりませんが、まだ、今なら『シリコンサイト』の法則に支配されているんですよね?」 「ええ、まあ」 「そして、ウィルは、敵を常に求めている」 「そうですが……?」 「なら、方法はある……と思うんですよ。ちょっと手伝ってもらえますか?」 「ええ!?」 「少しは働け。今まで、何もしてないんだ」  抗議の声をあげた大樹に、八環が冷たい声で言い放った。胸を押《お》さえた手の下から、血がだらだらと流れ落ちている。 「え、でもですね」  大樹は両手を挙げる。 「あの……小賢《こざか》しい計算|野郎《やろう》に、小細工で挑《いど》んだら一発で負けるってのも『シリコンサイト』のパターンなんですけど……」 「やってみなきゃわかるもんかい!」  ウィルを相手にしようとするのに、きわめて皮肉《ひにく》な台詞《せりふ》が、地面から投げつけられた。    5 終戦:Final Fight 「本日、ついにパキスタンが、核《かく》実験を行ないました」  カウンターの片隅《かたすみ》に置かれた十四インチのテレビが、ニュースを映《うつ》し出した。 「とうとう、やっちまったか」  ショートホープをくゆらせながら、八環が鼻を鳴らす。 「アレさえなければ、絶対にやってほしくはなかったですね」 「間違《まちが》いないのかね?」  カウンターからマスターが尋《たず》ねた。 「大樹君の情報が確かなら」  教授は答える。 「ウィルは、ちゃんと実験場に潜《もぐ》りこんでいたはずです」 「何をやったの?」  かなたが興味津々《きょうみしんしん》といった顔で覗《のぞ》きこむ。 「自慢話《じまんばなし》にはなりません」  教授の顔は、相変わらず、どこかユーモラスだ。が、声にこめられた不機嫌《ふきげん》さは、隠《かく》しようがない。 「ウィルにね、今、地球上でいちばん、恐《おそ》ろしい敵ってやつを教えてあげたんですよ」 「それって……まさか?」 「そうだよ。インドとパキスタンが爆発させたやつだ」  八環が、灰皿《はいざら》に吸いがらを押《お》しつける。 「大樹にインターネットで、あのへんのに連絡《れんらく》取らせたんだ。状況《じょうきょう》を説明して、ウィルが、実験場に入れるように、いろいろ動いてもらった」 「はあ……」 「戦ったんでしょうね、彼」 「でも、阻止《そし》できなかった?」 「阻止なんて、彼の考えの中にあるもんですか。わたしは、核兵器を敵だとは教えましたが、それを使う人間を敵だなんて言いませんでしたよ。言ってたら、今ごろ、ホワイトハゥスが大騒《おおさわ》ぎです」 「そっか……じゃあ、爆発させておいて」 「耐《た》えようとしたでしょうね」 「今ごろは、蒸発してるよ」 「どうでしょうね」  新《あら》たな煙草《たばこ》に火をつけた八環に向かい、教授が言う。 「それを決めるのは人間たち、だと思いませんか?」  教授は、じっと八環を見る。そのユーモラスな顔の奥《おく》に、本当はどんな表情が隠れているのか、見定《みさだ》めは難しい。 「……なるほど」 「どっちだったらいいのか、わたしは、自分でもわかりませんね」  言って、教授は立ち上がった。 「今は、個人的な人間の友人を見舞《みま》うことにしましょう」 「どんな具合《ぐあい》だい?」 「意識が戻ってから、回復はすこぶる順調ですよ」 「そいつはよかった」 「本人、こんな怪我《けが》なんかで人生|諦《あきら》めてたまるかって、息まいてます。まったく、おかしな話でしょう?」  ひょうきんさが決して消えない顔で、教授は、かすかに口もとを歪《ゆが》めてみせた。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-3————————  わたしは、電車を降りました。目的とする我が家まで、徒歩で十分ほど残っています。  その家路の途中に、建物が一つ。  両開きの大きなガラス扉。そこから、一人の男性が出てきました。傍《かたわ》らで、長いストレート・ヘアの女性が、その男性の腕に、自分の両腕を絡ませています。  支えられているのではなく、支えています。自分より二回りは大きい男性を。  男性の足取りは、まだ、万全とは言えないようです。女性に支えられながら、彼の体格には不似合いな、ゆっくりとした歩みです。  それでも、二人の顔には笑みがあります。  この建物は、そういう宿命を負っています。入るときではなく、出ていくときに笑顔を伴う。  そして、それを見送る白衣の人たちにも。  そう、そこは病院です。医師と看護婦に頭を下げながら、タクシーに乗りこむ男女を、わたしは足を止め、見送ります。  おめでとう、よかったですね。  走り去るタクシーに向け、心の中で、呟《つぶや》きます。  そのまま見送ればよかったはずが、ふと、わたしは病院へと目を戻してしまいました。そして、今まで心からの笑みを浮かべていた医師と看護婦たちが、急に顔を強ばらせ、足早に建物の中に戻っていくのを目撃します。  わたしは、立ち尽くし、それを見ていました。  出るときに、そして送るときにこそ、笑顔が浮かぶ建物。  とすれば、入るときの、そして迎えるときの顔は。  わたしの顔もまた、沈痛なものになっていたことでしょう。  そして、ゆっくりと聞こえてきます。救急車のサイレンの音が。  それは、わたしが後にした駅の方角からでした。  生と死、その重い交差点に立っていることを、わたしは思い知らされていました。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第三話  眠り姫は夢を見ない  西奥隆起   プロローグ   1.残像   2.嘘言《きょげん》   3. <うさぎの穴>   4.白い部屋   5.笑い声   6.家族の軌跡   7.睡魔   8.目覚め [#改ページ]    プロローグ  ピッ、ピッ、ピッ……  暗い部屋の中、規則正しい電子音が響《ひび》いている。  ベッドの脇《わき》にあるスタンドライトが淡《あわ》い光を投げかけているため、ぼんやりとではあるが、部屋の様子がうかがえる。  弱光に映《は》えるのは、少しくすんだ白い壁《かべ》、白いシーツのベッド、そこに眠《ねむ》る白い肌《はだ》の少女。  そして、少女の傍《かたわ》らに立つ、白衣の男。  男が舐《な》めるような視線を少女に走らせた。彼の細い目が、さらに細くなる。  その男の手が、ゆっくりと、少女へと伸《の》ばされた。  ピッ、ピッ、ピッ……  機械と彼女を結ぶ黒いコードの上を、男の指が滑《すべ》る。  指先は少女の首筋《くびすじ》で止まった。そこからさらに延《の》びる黒いコードは、少女の首から下を覆《おお》っている白いケットの下に潜《もぐ》りこんでいる。また、そこで交差《こうさ》する二本のチューブが、少女の整った鼻梁《びりょう》と口許《くちもと》を覆うカップへと延《の》びていた。  男は、指先に伝わるかすかな振動《しんどう》を感じていた。  小さな脈拍《みゃくはく》は、心電計の奏《かな》でる単調な旋律《せんりつ》と重なっている。  指をそのままに、男が視線を転じた。  小さな胸の隆起が、ゆったりとした拍子《ひょうし》で上下している。こちらも、取り付けられた呼吸計《こきゅうけい》の針の振幅《しんぷく》に合わせて。 「まだ、生きている……」  二つの立証を前に、男は当然のことを言った。そのとき—— 「あたしの体に、なにする気!」  不意に、男の背後から声がした。気丈《きじょう》な、若い女の声だ。  誰《だれ》だ?  言うよりも早く、男は振《ふ》り向いていた。  ところが。  そこに、人の姿《すがた》はなかった。  男の目に映ったのは、やはり白く塗《ぬ》られた扉《とびら》だけ。 「どっちを向いてるのよ。あたしは、ここにいるじゃない」  再《ふたた》び、男の後ろから声がした。  その言葉に、男がはっとする。  視線を少女に戻《もど》すが、彼女の薄紅を引いたような唇《くちびる》が動いた形跡《けいせき》はない。  男の驚《おどろ》きは、さらに続いた。  眠《ねむ》ったままの少女の頭上。そこにも <少女> の姿があったからだ。  紺色《こんいろ》のブレザーからのぞくベージュのベストに、チェックのスカート。そして、黒のソックス。  ブレザーの胸の部分には八重桜《やえざくら》を摸《も》した校章《こうしょう》があった。  帝都《ていと》女子校の校章だ。  デザインに有名デザイナーを起用したこともあって、制服目当てにこの学校を受験する生徒も多い。実際、テレビのドラマでも、この学校の制服をモデルにしたものが少なからず使用されている。ただ、進学校であるため、入学するのに、それなりの努力が必要であるのだが。  そんな <少女> の姿は、文字どおり薄《うす》かった。まるで、映写機《えいしゃき》で映し出されたかのように。  朧《おぼろ》げな彼女の姿ごしに、白い壁《かべ》が見える。 「おまえ……」  ようやく驚情《きょうがく》の表情を崩《くず》すことのできた男が、口を開く。 「私たちの同類か?」  男の言葉に、 <少女> が眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。彼女の表情は、明らかに男の言葉を否定している。  彼女を気にすることなく、男が続ける。 「おまえの体を高く買いたいという人がいる。体といっても、ここと……」  首筋《くびすじ》に添《そ》えられたままだった男の指が、眠《ねむ》っている少女の体を滑《すべ》った。肩《かた》から両|乳房《ちぶさ》にかけて、大きな輪を二つ。 「やめて!」 <少女> が叫《さけ》ぶが、男は彼女を一瞥《いちべつ》するだけで、指の動きを止《や》めようとしない。加えて、口の端《は》が僅《わず》かに吊《つ》り上がる。彼女の頬《ほお》が紅潮《こうちょう》しているように見えたからだ。  男が、今度は少女の鳩尾《みぞおち》あたりで、拳《こぶし》ほどの大きさの輪を描《か》く。  再《ふたた》び <少女> がやめてと叫んだが、やはり、聞き入れられなかった。今度は、彼女を一瞥することなく、指の動きだけが速くなる。少女の体の上を、男の指が氷上のスケーターのように舞《ま》った。 「最後は、ここだ」  男の指が、少女の顔に伸《の》びる。  閉じられた目、二つの瞼《まぶた》を、男はゆっくりと撫《な》でていった。 「わかるか?」  男の上げた視線が <少女> と重なる。  彼女はしばらく男を睨《にら》みつけていた。男が作り笑い——どこかいやらしい笑《え》みを向けている。さっき、自分が現れたときに見せた驚愕《きょうがく》の表情は、もはや微塵《みじん》も感じられない。 「心、肺、肝《かん》、腎《じん》、膵《すい》、小腸。最後に角膜《かくまく》だ」  もう一度、男の指が少女の瞼の上を這《は》った。 「あなた、そのためにあたしを……」 <少女> が不快感を露《あらわ》にする。 「あのとき私は聞いたのだよ。生きていてもしかたがない……そう言ってたじゃないか。もっとも、この状態では生きてるのか死んでるのか、わからないようなものだが」  男が <少女> から少女へと視線を移す。  眠ったままの少女は、何事もなかったかのように規則正しい呼吸と鼓動《こどう》を繰《く》り返していた。  そのことは、機械も証明している。 「まいったね」  髪《かみ》を掻《か》き上げながら、 <少女> が微笑《ほほえ》んで見せた。どこかふっ切れたような、そんな表情を男に投げかける。 「あたしの体を使うのは待ってよ。家族がどんな顔をするのか見たいんだ。嘘泣《うそな》きくらいは、するかもしれない。そこでやつらに復讐《ふくしゅう》してやるんだ。あたしは、そのために……」 「家? 復讐?」  男の目が輝《かがや》く。 「だったら今後、私の手伝いをしてくれ。そうすれば、おまえのからだはしばらくこのままにしてやってもいい」 「手伝い? あたしが?」 「そうだ。私とおまえ、力を合わせれば、復讐とやらも楽にいくはずだ。なあに、簡単なことだ……」    1 残像 「予備にコンパクトカメラを持ってきておいて、正解だったな。あいつには確か……」  そう呟《つぶや》きながら、青年はカメラケースに一眼《いちがん》レフを収めた。そして、ウインドブレイカーのポケットからコンパクトカメラを取り出す。  ベルトポーチにあったドライバーを使い、コンパクトカメラをすでに立ててあった三脚《さんきゃく》に固定しようとする。しかし、どう見ても規格が合わないと判断すると、青年はカメラを固定することをあきらめ、三脚の上にちょこんと乗せた。  プワンッ!  小気味《こぎみ》のいい警笛《けいてき》の音が、耳に飛び込んでくる。  それを合図に、青年はカメラのファインダーを覗《のぞ》き込んだ。  山手線《やまのてせん》205系——ステンレスの車体に緑の帯《おび》の入った電車が、フレームの左端《ひだりはし》に見える。フレーム右端には、改札《かいさつ》へと向かう降車客のおりる階段が引っ掛《か》かっている。  青年はそのままの姿勢で、カメラにあったスイッチのひとつを押《お》した。  途端《とたん》に、ファインダー越《ご》しの視界が広がる。  ファインダー越しの青年の目からは、左端に発車していった山手線の車輌《しゃりょう》が、右端にはちょうどこの駅を通過しようとした青帯の車体の電車が差しかかるのが見えた。 「少し、遅《おそ》かったか。なんにせよ、この位置からじゃ、パノラマでないと撮《と》れないな」  青年が、まだファインダーを覗《のぞ》き込んだまま、ぼやいた。十秒と経《た》たないうちに、縁と青の電車が、ガラス越しの視界から消える。カメラを下ろすと、すっかり人気《ひとけ》のなくなったホームが見えた。 「ま、いいか。この時間帯なら、いくらでもチャンスはあるし」  と、青年はひとりごちた。  彼——柳瀬《やなせ》修司《しゅうじ》は、取材のためにここ、御徒町《おかちまち》駅の南行き(東京方面行き)のホームにいた。  取材というのは、雑誌『鉄道月報』の特集記事に使う写真撮影だ。記事とは、山手線と京浜《けいひん》東北線とが並足《へいそう》する電車の競走を面白《おもしろ》おかしく取り上げるもので、それぞれの電車に実際に乗って、レースにみたてた……なんともナンセンスな企画《きかく》である。  このようなことができるのも、この区間の特異な路線の状態にある。  山手線は、東京の山の手、品川《しながわ》から田端《たばた》間を走る電車であるが、東海道本線および東北本線にも専用線があり、環状線として運行されている。この東京の大環状線は東京へ向かうすべての私鉄線と接続しており、都心の肺動脈的な役割を果たしていると言っても過言ではない。  そんな山手線。昼間の時間帯は京浜東北線の快速電車に対する各駅停車という役目も担《にな》う。  京浜東北線は、正確な路線名ではなく、実際には東京を中心とする、東北本線と東海道本線に根岸線《ねぎしせん》を加えた——北は大宮《おおみや》、南は大船《おおふな》までの——三つの路線の複合線である。緩行線《かんこうせん》ではあるが、昼間は山手線との並走区間が快速運転となる。  いま、修司のいる御徒町駅も、京浜東北線が通過する駅だ。彼は、この駅で停車している山手線と通過する京浜東北線とをひとつのファインダーに収めるべく、ここ——電車の先頭を捉《と》らえることのできるホームの南端にいた。  ついさっき、そのタイミングを逃《のが》してしまったが、山手線と京浜東北線の運転|間隔《かんかく》は短い。そんなこともあり、修司は時刻表で次の電車が来る時間を確認することなく、持参してきた缶《かん》コーヒーのタブを起こした。時計を見ると、午後三時を少し回ったところだ。  それから十五分後。そのときが来た。  いま停車したばかりの山手線の扉《とびら》が開く音と、京浜東北線の電車が通過するアナウンスが重なったのだ。  待ちかねたとばかりに修司がカメラを構える。  パノラマモードで、横に広がったフレーム。  その左には、山手線に乗降する客の姿があるが、この時間帯は通過列車だけのホームとなっている右には、人の姿はない……はずだった。  しかし、電車が停《と》まるはずのないホームに向かって立っている人の姿が見えた。  立っていたのほ、制服姿の女子高生。そろそろ学校も終わって、帰宅時間に差しかかる時刻。ここにいて、なんら不思議《ふしぎ》はないのだが、彼女が後ろにある山手線に乗る気配はない。加えて、その電車から出てきた客でもないことを、修司はさっきからずっと見ていたから知っている。  しばらく仕事を忘れ、カメラをパノラマモードから望遠モードに切り換《か》えた。  ガラス越しに、女子高生の顔をうかがう。 (あれ? 天気雨か?)  ファインダーの中いっぱいに、きらきらと輝《かがや》くものが降っているのが見えた。  しかし、自分が濡《ぬ》れた気配はない。  傷でも入ったのかと、ファインダーとレンズを外から見るが、そういった様子はない。  気のせいかと、修司が再び女子高生を捉《と》らえる。手の届くくらいに近づいた彼女の顔に、黒く細い線のようなフレームの眼鏡《めがね》が見えた。  眼鏡の向こう、彼女は瞳を閉じていた。 (なにかりえごとでもしているのだろうか……にしても、かなりの集中力だな)  後ろの山手線が、そろそろ扉を閉めようとしている。それでも、やはり、彼女がそれに乗る気配はなかった。 「ま、いろいろあるんでしょ」  しばし忘れていた仕事へと、気を戻《もど》す。  もう一度、カメラをパノラマモードに切り換えようとした、そのとき—— 「なんだ?」  修司の口から、思わず、言葉が洩《も》れた。  望遠で女子高生を捉らえていたファインダーの左端に、二つの腕《うで》が入り込んできた。  誰《だれ》かの両腕は、そのまま女子高生の背を押《お》すと、修司の拡大された視界から消えた。  同時に、背中を強く押される形となった女子高生も、彼の視界から消える。 「えっ!?」  思わぬ光景に、修司は被写体《ひしゃたい》をカメラで追いかけた。  カメラが少し左へと向けられる。  ファインダーには、右に消えた女子高生を押したであろう両手を、まだ伸ばしたままの少女の姿があった。背を押された女子高生と同じ制服を着ている。  顔から上が切れていたため、カメラをやや上方へと向けた。 (なっ!?)  今度は言葉にならなかった。  少女の顔を見た修司は、ファインダー越しではなく肉眼で彼女を確認しようとカメラを下げた。そのとき、つい指に力が入ってしまったのか、カシャッ、とシャッターの切れる音、続いてフィルムを巻き上げる音が聞こえてくる。  そのことを彼は気にしなかった。いや、気にすることができなかった。それ以前に、動くことさえできなかった。 「嘘《うそ》だろ……」  ただ、呻《うめ》くような声が洩《も》れただけだった。  パ、パ、パ、パ、パーンッ!  警笛《けいてき》が鼓膜《こまく》を打ち鳴らす。  その音に修司は、しばし遠くへ飛ばしていた意識を取り戻した。  彼の目は、無意識に警笛の音に引かれていた。  京浜東北線、銀の地に青帯の電車が、轟音《ごうおん》を立てながら、この通過駅へと迫《せま》っている。  その手前。  背中を押された女子高生が、そんな通過列車によたよたとした足取りで近づきつつあった。彼女の目は、閉じられたままだ。眼鏡をかけてることから、目が不自由であるとは思えない。 (あいつが、突《つ》き飛ばした?)  再《ふたた》び、視線を左へと戻す。  瞬《まばた》きをするほどの短い時間であったにもかかわらず、少女の姿は消えていた。  キィィィー!  警笛が、耳をつんざく大音量の制動音にとって替《か》わった。修司が再度、視線を転ずる。ホームの際《きわ》では、いままさに、背を押《お》された女子高生が転落するところだった。 (駄目《だめ》だ! 間に合わない!)  ホームの中ほどまでに滑り込んできた電車は急停止しようとしているものの、彼女の手前で止まるどころか、このままでは電車の最後尾《さいこうび》だけでもホームに止まれる速度ではない。惨事《さんじ》が目に浮《う》かぶ。同じことを察したのか、山手線のほうから女の人の悲鳴《ひめい》が聞こえた。ホームの南側にいた人々の視線が、一点に集まっていた。踏《ふ》みしめるコンクリートの足場を失った女子高生の体が、宙《ちゅう》を舞《ま》おうとする。  万事休す。  誰もが、そう思った矢先《やさき》。  黒い影《かげ》が、飛来した——そんなふうに修司には見えた。  突然《とつぜん》やってきた黒い影は、重力に抗《あらが》うことなく線路に落ちようとした女子高生の腕《うで》を掴《つか》むと、パンヤの詰《つ》まった人形《にんぎょう》でも引くかのように、彼女の体をホームへと引き戻した。  制動音が止む。  電車は、最後尾の運転室の扉をかろうじてホームに残して停車した。  扉からは、すぐに車掌が飛び出し、二人の人物のもとへ駆け寄る。  飛び込み台となりかけたホームの一端に、二人の人物の姿があった。  ひとりは、さっきの女子高生。彼女は、さっきとは打って変わって目を大きく見開き、突風に乱れた髪《かみ》とずれた眼鏡をそのままに、ホームにペタンと座《すわ》り込んだまま首を幾度も左右に振《ふ》っている。なにかを言おうとしているが、言葉にならない。酸欠《さんけつ》状態の水槽《すいそう》にいる魚が水面であえぐように、ただ口をばくばくとしていた。  もうひとり、修司には黒い影に見えた人物は、男だった。少しくたびれた黒いスーツ姿の中年男。全力で駆《か》けてきたのか、彼は額の汗《あせ》を手で拭《ぬぐ》いながら、女子高生のそばに立っている。男はその場で、首を振るように、辺《あた》りを見渡《みわた》していた。 「あれは、八環《やたまき》さん……」  車掌に質問されている男のその顔を見て、修司が呟《つぶや》いた。  修司が八環と言った男のもとへ近づこうとしたとき。  八環、そしてまだ座り込んだまま動けない女子高生のもとに、騒ぎを聞きつけた駅員らしき男がやってきた。  駅員は二言三言、八環に話すと、女子高生にも声をかけ、彼女が歩けるのを確認すると先導するように、二人を連れて行った。  修司もその後を追おうとするが、三脚《さんきゃく》とバッグを置いてきたままであることを思い出し、慌《あわ》てて取りに行く。  そんな修司に合わせるように、惨事を免がれた電車が、女子高生の無事を確認後、二分遅れで通過する予定だった停車駅を発《た》った。       *      *  同時刻。  御徒町駅の北行き(大宮方面行き)のホームから、南行きのホームの事件を見ている目があった。  さっきまでの警笛《けいてき》と急制動音のこともあり、足を止めていた人が何人かいたが、内回《うちまわ》りの山手線が入ってくると興味をなくし、人々は電車へと乗り込んでいる。  だが、ただひとり。  薄茶色《うすちゃいろ》のスーツを着た、目の細い男だけは、滑り込んできた電車に乗ることなく、ホームに残っていた。 「とんだ邪魔《じゃま》が入っちゃったね」  男の肩口《かたぐち》から、声がした。  男が声のしたほうへと目を向ける。  いつ現れたのか。男のそばには、さっき線路に飛び込もうとした女子高生と同じ、帝都女子校高等部の制服をきた <少女> の姿があった。 <少女> の姿は、少し透《す》けており、彼女の体越しに向こうの景色《けしき》が見えていたが、いま彼らの周りには誰もいない。 「あれじゃあ、仕方ないわ。あたし、あなたに言われたように……」 「あなた?」  スーツ姿の男が彼女を睨《にら》みつけながら言うと、 <少女> が慌てて言い直す。 「父さん[#「父さん」に傍点]に言われたように、やるべきことはちゃんとやったんだからね」  言葉を訂正《ていせい》させられたことを気にもせず、 <少女> は悪びれることなく言った。  フンッと、父と呼《よ》ばせた男が鼻を鳴らす。 「カメラを手にした男が、おまえを見ていた。ひょっとしたら、写真を撮《と》られたかもしれんぞ」  不安を煽《あお》るような口調で男が言ったが、 <少女> がそれを気にした様子はない。 「あたしたちは、カメラに写んないんでしょ」  と、明るく答えた。 「あの男のカメラでも、そう思っているのか?」  南行きのホームを指さしながら、男はもう一度、 <少女> に問う。 「あの男?」 <少女> が男の差し示したところを見やる。  途端《とたん》、それまで陽気だった彼女の表情が曇《くも》った。  彼女の視線の先には、三脚《さんきゃく》を手にバッグを肩にかけて、改札《かいさつ》に至る階段へと向かっている青年の姿があった。 <少女> が顔を顰《しか》める。露骨《ろこつ》に嫌悪感《けんおかん》を露《あらわ》にしたようにも見えた。その嫌悪感が、いま階段にさしかかった青年に対して向けられたのか、それを見るように指示した男に対するものなのかはわからなかったが。 「あいつなら、なおさらだ! 生きていたって写りたくなんかない!」  激昂《げっこう》した <少女> が吐《は》き捨てるように言うが、すぐに態度を変えた。 「父さん、チャンスだよ。今ならあいつを殺《や》ることができるよ! 早く! 早く!」  過激《かげき》な言葉で急《せ》かす <少女> に、男は冷《ひや》やかな目を向けた。 「わがままを言うな! いま同じような事故を起こすと、事件として疑われることは確実ではないか!」  男の怒声《どせい》を受けながらも、 <少女> の目は青年を追っていた。やがて、階段を昇《のぼ》って行った青年の姿が見えなくなる。 <少女> が男に向き直る。  ふくれっ面《つら》をしていた彼女だが、男の表情が崩《くず》れないのを見ると、なにも言わず姿を消した。  去ったのではない。  文字どおり、蒸気が空気に溶《と》けるように、彼女の姿は薄《うす》くなって消えたのだ。 「ふん。もう三ヵ月になるんだぞ。そろそろちゃんと、父さん[#「父さん」に傍点]の役に立ってほしいものだ」  少女の消えた跡《あと》に向かって、男は皮肉《ひにく》めいた言葉を投げかけた。        *       *    2 嘘言《きょげん》 「すごいじゃないですか、八環さん!」  御徒町駅の北行きのホームのなかほどにある駅長事務室から出てきたばかりの八環に向かって、修司が少し興奮気味《こうふんぎみ》に言った。  そこから八環が出てくるのに三十分はどの時間を要したのだが、出てくるのをずっと待っていた修司が苦《く》にした様子は微塵《みじん》も感じられない。 「ああ、柳瀬か……」  目の前の青年とは対照的に、八環は、どこか冷めた口調で答える。 「おまえ、どうしてこんなところにいるんだ?」  八環に訊《たず》ねられて修司は、質問に答えることなく、先に自分が事件の始終を見ていたことを告げた。まだ興奮は冷めていない。 「人命を救ったんですよ。あとで感謝状でも贈《おく》るって言われてたんですか」 「それよりも、柳瀬。おまえ、さっきの事故を見ていたんだろ? まわりに不審《ふしん》な奴《やつ》はいなかったか?」  修司の熱が入った言葉を遮《さえぎ》って、八環が訊ねた。 「不審な人ですか。たしかに、あの女の子が線路に落ちそうになったのを、ずっと見てましたけど……」  修司の声の調子が落ちる。  八環に訊《き》かれ、いまになって修司は女子高生を突《つ》き飛ばした少女のことを思い出した。どうして、いままで少女のことを思い出せなかったのだろうとも思ったが、見覚えがあった故《ゆえ》に思い出せなかったのではと、修司は自分の考えに答えを出した。 「怪《あや》しい奴を見かけたのか?」  修司に心当たりがあると感じとってか、八環が修司に詰《つ》め寄るような形になった。 「見たというか、そのぅ……」  八環の気迫《きはく》に押されて、修司が尻込《しりご》みする。 「おっと、すまない」  自分の口調が脅迫《きょうはく》めいていたことに気づいた八環が、素直《すなお》に非礼を詫《わ》びる。 「鉄道警察の連中が、あの娘《むすめ》が飛び込み自殺しようとしたと決めつけちまっててな。ずっとバカバカしい問答をしてきたところだから、少しイラついてたんだ」 「そうだったんですか」 「あの娘。誰にも背を突かれてないと言ってたからな。もっとも、自分から死のうと思ったわけでもないと言ってたが」 「自殺じゃないですよ」  修司の言葉に、八環が目を輝《かがや》かせる。猛禽《もうきん》を思わせる鋭《するど》い目つきで青年を見つめ、続く言葉を待った。 「俺《おれ》、あの女子高生の背中を押した奴、見ましたから」 「どんな奴だった?」  八環が訊《たず》ねる。さっきよりも穏《おだ》やかな口調で。早く答えろと急《せ》かす気持ちがこもっていたが。  しかし、そう問われた修司は、一瞬《いっしゅん》、答えるのをためらった。そんな修司の態度に、八環が眉《まゆ》を顰《ひそ》める。 「俺の勘違《かんちが》いかもしれませんが……」 「それでいいから、早く教えろ」 「線路に落ちかけた女子高生と同じ、帝女の制服を着た女の子でしたよ。でも……」  修司が言葉を飲んだ。 「あの娘と同じ学校の生徒なんだな」  八環が親指を立てて、駅長事務室を指差す。  八環と線路に落ちかけた女子高生は、二人してここに連れてこられたが、彼女のほうは引き続き事情|聴取《ちようしゅ》されているのか、そこからまだ出てきていない。 「でも、違《ちが》うんですよ」 「なにがだ?」 「俺が見たのは、友達の妹なんです。彼女、いま病院に入院していて……重い心臓病を患《わずら》ってましたから、とても外に出歩ける状態じゃないんです」 「本当か?」  うさん臭《くさ》そうな眼差《まなざ》しを修司に向ける八環。  そんな八環に向かって、修司は手に持っていたコンパクトカメラを見せつけた。 「こいつのファインダーから見てただけなんで、なんとも言えませんけど。それに、一度目を離《はな》したらいなくなってましたし……だから、勘違いかもしれないと言ったんです。自信がないんで、警察にも言わずに八環さんが出てくるのを待ってたくらいですから……」 「ここの警察は無能だ。報告する必要はないと思うぞ」  八環がさらりと言ってのける。胸ポケットから煙草《たばこ》を取り出して火を点《つ》けようとするが、終日|禁煙《きんえん》と書かれたプレートが目に入ったため、仕方なくくわえていた一本を抜《ぬ》き身《み》のままポケットにしまった。 「でも、八環さん」 「なんだ?」 「どうして、そんなこと訊《き》いてくるんです? なんだか、探偵《たんてい》みたいなことをやってるように見えるんですけど」 「えっと、そいつはだな……」  八環の目がしばらくのあいだ泳いでいたが、先ほど修司が取り出したカメラで止まった。 「おまえと同じ、仕事でここに来たんだ」 「取材ですか。八環さんって、山野の写真ばかり撮《と》ってるわけじゃないんですね」 「いろんなところに繋《つな》がりがあるからな。まあ、どれも�|旅と渓谷社《タビケイ》�ほどじゃないがな」  八環が出版社の名を出した。  旅と渓谷《けいこく》社は、旅行ガイドブックを中心に発行している老舗《しにせ》出版社である。  雑誌も月刊誌を二つ抱《かか》えており、ひとつは社と同名の月刊誌『旅と渓谷』で、もうひとつは『鉄道月報』だ。 『旅と渓谷』は、日本各地の山岳《さんがく》や渓谷の景観をグラビア入りで紹介する雑誌で、山岳カメラマンである八環|秀志《ひでし》は、同誌との繋がりが深い。 『鉄道月報』は、その名のごとく、鉄道を中心に取り上げた旅行誌であったが、いまでは鉄道を趣味《しゅみ》とした読者に受けるようにと鉄道|模型《もけい》にもページが割《さ》かれている。こちらは、柳瀬修司がアルバイトのカメラマンとして、五年前から仕事をしていた。今年で二十歳《はたち》になる彼は、旅と渓谷社とは高校進学時からの付き合いだ。当時から、彼は鉄道に興味があり、読者レポートと称するコーナーに記事を投稿《とうこう》していたことが馴染《なじみ》である。まさに、趣味と実益とを兼《か》ねた仕事と言えた。  鉄道誌であるとともに、一応、旅行雑誌ということもあって、『鉄道月報』では風景写真が取り上げられることも多々《たた》あった。  どこかに列車が写っていることが条件になるが、それさえ満たせば普通《ふつう》の風景写真となんら変わらないため、それらの撮影を八環はよく依頼《いらい》される。本職が山岳カメラマンであるため、多くが山岳や高地を走るローカル線を撮ったものばかりであったが。  同じ雑誌で仕事をしていることもあり、修司と八環は互《たが》いに顔を知っていた。  カメラマンの先輩《せんぱい》として、修司が八環に惚《ほ》れ込んでいる……というより、修司は八環のファンであった。  その最《さい》たる理由は、八環の撮る写真に修司が魅了《みりょう》されたことにある。  修司は、八環の撮る写真のことを「烏の観《み》る景色《けしき》」と呼《よ》んでいた。  まさしく鳥瞰《ちょうかん》で撮られた写真を、どこが撮影ポイントなのか、修司は地図で確認しようとしたことがあるのだが、絶壁《ぜっぺき》の岩場などの未踏《みとう》の地があるだけで、結局、わからずじまい。八環に空撮《くうさつ》でもしたのかと訊《たず》ねても、ノーコメントの一点張りで、やはりわからないまま。編集長に訊《き》いても、空撮するような予算は下りないと言われているから、それ以外の、なにかとてつもない手段《しゅだん》で撮影したのだろうと、修司の中で八環に対する思いがどんどん膨《ふく》れ上がってしまい、今では八環を勝手に師として仰《あお》いでいる。  機会があれば同行させてくれと、修司は八環に言うがいその機会はまだ、ない。  八環のほうは、仕事で『鉄道月報』編集部に顔を出す度に同行したがる修司を、疎《うと》ましく思っている節《ふし》もある。八環としては、修司という人間[#「人間」に傍点]に、自分の撮影ポイントに行く姿を見られたくないからだ。 「今日《きょう》は週刊誌の仕事で来た。だから、あの娘を助けたのは偶然《ぐうぜん》だ」  言いながら、八環は南行きのホームへと向かうべく、階段を下りていった。修司もその後に続く。 「週刊誌の……ですか。でも、こんなところで、なんの写真が必要なんです? カメラを持ってきてないみたいですし、今日は下見だけですか?」  そんなところだと八環は答える。地上の改札《かいさつ》のある連絡通路を通り、二人は足早に階段を昇った。ちょうど、外回りの山手線が入線したところであり、八環がそれに乗ろうとしたからだ。  二人がホームに到着したときにちょうど、停車した電卓の扉《とびら》が開いた。歩調をそのままに、二人は降車客の吐き出された電車に乗り込んだ。嵐《あらし》の前の静けさか、帰宅ラッシュ時間前の車内は空《す》いており、二人は長椅子《ながいす》のひとつに並《なら》んで座《すわ》った。  扉が閉まり、電車がゆっくりと走り出す。  窓の外に見えていた、金《きん》の取り引き価格を表示した看板《かんばん》が後ろへと流れていく。  そのあとを、ついさっき事故のあった現場も流れていった。  いまホームにいる者たちで、三十分前に起こった騒動《そうどう》のことを知るものはいない。都会の人間は、常に流動的であり、留《とど》まることを知らない。ひとえに——文字どおり網《あみ》の目である——交通網が、忙《せわ》しない人間に時間という名の商品を売るために発展してきたからだ。  だから、駅も人に待つ時間を与えない。 「週刊誌の仕事って、どんなものなんです?」  さっきまで自分の立っていた場所を見送ってから、修司が口を開いた。 「こいつだ」  八環が、懐《ふところ》にあった紙を取り出して修司に見せる。それは新聞の切り抜《ぬ》きと、細《こま》かい文字の詰《つ》まったメモ用紙だった。 「ああ、最近起こっている……」  切り抜きを見た修司が言った。  新聞には、『交通事故、急増』と見出しがあり、中でも十五|歳《さい》から二十歳までの若者による飛び込み事故が増えていると書かれてあるものだった。  ここ三ヵ月、都内での飛び込み事故の件数が極端《きょくたん》に増えているというものであり、多くが鉄道への飛び込みだったが、中には幹線道路を高速で行き交《か》う車に飛び込むものもあった。  三ヵ月間で死亡二人、重傷五人、軽傷八人という数字が上げられており、これは現在知られている数字で、警察に届けられていないものもあるかもしれないと言われている。  新聞の切り抜きには社説|欄《らん》もあって、そこには安易《あんい》に自殺しようとする若者を非難《ひなん》する言葉が書かれてあった。 「飛び込み自殺事件のことですよね。まさか、似たような事件が目の前で起こるとは思いませんでしたけど」 「さっきのは、自殺じゃなかっただろ。事実はちゃんと認識しろよ」  八環の言葉に、修司の脳裏《のうり》に被害者《ひがいしゃ》を突《つ》き飛ばした少女の顔が浮《う》かんだ。でも、自分が八環に対して見間違《みまちが》いかもしれないと言ったため、自殺と表現したのは間違いではないとも思ったのだが、それを口にする前に、八環が言った。 「こいつは俺《おれ》たち……いや週刊誌が調べたものだが……」  八環が、メモのほうに目を向ける。 「被害者のほとんどが、自殺の意志はなかったと言ってるんだ。傷の浅い奴や、話すことのできる奴はな」 「背中を押《お》されたってことですか?」 「証言が正しいのなら、そういうことになるかもしれない。ただ、気がつけば目の前に電車や車が迫《せま》ってたらしいな。ふつう、自分から危ない場所に近づく人間などいない。しかし、突き飛ばされたと言う者もいない」 「事件の目撃者《もくげきしゃ》なんかは……」  八環が、メモから修司のほうへと向き直る。そして—— 「ない」と一言だけ、告げた。  電車が秋葉原《あきはばら》駅に到着する。乗換《のりかえ》駅であるために、車内にいた半分の客が下り、その倍以上の客が乗り込んでくる。修司は次の撮影現場である神田《かんだ》駅へ向かうため、このまま山手線に乗っているつもりだった。八環はおりる気配を見せない。彼はただ、じっと修司を見つめている。表情が固い。 「俺、本当に見たのかどうか、わからないんですよ」  訊《き》かれもしないのに、修司はそう答えた。  電車が動き出す。  車輪が規則正しい律動を奏《かな》でるようになってから、八環は話し始めた。 「死んだ者も二人いる。二人とも線路への落下によるものだ。だから、警察も事故と事件と両面で調査している。目撃例がないから、難航《なんこう》しているようだが、ほとんどが事故として片づけられたみたいだな」 「なんだか、起こった事件のぜんぶが関連性のあるような言い方ですね」  修司が話題を変える。その言葉に、八環が固くしていた顔を崩《くず》した。 「まず、そういうふうに位置づけてから、記事にするんだとよ」  八環が吊《つ》り広告に目を向ける。釣《つ》られて修司も視線の後を追う。そこには、雑誌『週刊問題』の広告があった。大きな文字で、�流通業界の大御所《おおごしょ》、松前《まつまえ》正三郎《しょうざぶろう》、危篤《きとく》!? 遺産をめぐる家族戦争激化!�と書かれてある煽《あお》り文句《もんく》が目に入った。 「週刊誌の仕事って、事件に関《かん》する写真を撮るんですか? やっぱ、現場だった場所の写真とか」 「そんなところだ。ホームで憂鬱そうな顔をしてる若者でも撮れば、扉を飾れるかな……って、そう言えば……」  なにかを思い出した八環が、修司へと視線を戻《もど》す。 「おまえさっきファインダー越《ご》しに見てたとかどうとか言ってたな。あそこで写真を撮ってたのか」 「ええ、俺も仕事です」  修司が、ケースに入れて手に持ったままだったコンパクトカメラに視線を落とす。 「そいつのフィルムを売ってくれないか?」 「そんな! だめですよ、八環さん!」  八環が奪《うば》おうとしたわけでもないのに、思わず、カメラを持つ手に力が入る。 「いや、言い方が悪かったか。ネガをくれとは言わない。今度、現像《げんぞう》した写真を見せてくれないか」 「さっきの事故に関するものなんて、なにも撮ってませんよ」  嘘《うそ》をついた。  あの事件[#「事件」に傍点]が起こったときに、思わずシャッターを切ってしまった一枚があった。角度的に、間違《まちが》いなく女子高生を突き飛ばした人物が写っているはずだ。 「来月、飛騨のほうへ行く予定がある。おまえの都合さえつけば、一緒《いっしょ》に行くか?」  目の前の男が、魅惑的《みわくてき》な提案をしてくる。  しばし逡巡《じゅんじゅん》した後、修司は答えた。 「とりあえず、写真は編集部のほうへ持って行かないといけないので、現像したら後で連絡します。八環さん、自分の仕事があるんじゃないですか?」  八環がなにかを考える素振《そぶ》りをするが、それを気にすることなく、修司は立ち上がった。 「俺、まだ仕事が残ってますんで。連絡はちゃんとしますから、飛騨の件はよろしく」  電車はいつしか神田駅のホームに滑《すべ》り込んでおり、扉の前に立った修司を取り囲むように、人の垣根《かきね》ができた。  修司はちらりと後ろを振り返った。  そこには、少し不機嫌《ふきげん》そうな顔をしている八環の顔があった。    3  <うさぎの穴>  次の日の夕刻。  柳瀬修司はエレベーターの中にいた。  壁《かべ》の塗装《とそう》がところどころ剥《は》げ落ちたお世辞《せじ》にもきれいとは言えないエレベーターが、ゆっくりと修司を上の階へと運ぶ。  壁にあるボタンは、5の数字にだけ淡《あわ》い光がともっている。  やっとのことで五階に到着したエレベーターが、乗客をおろすのを躊躇《ためら》うかのように、ゆっくりと扉《とびら》を開いた。  開いた扉の先に見えたのは、赤いドア。  そこにあったプレートには、 <BAR うさぎの穴> と書かれてある。昼前に、八環に電話したときに教えられたのと確かに同じ店の名だ。表の看板《かんばん》にもそうあった。  中からは、なんの音も聞こえてこない。営業時間には早く、まだ開いていないのではと、思わせる。だが、ドアには営業中と記《しる》された札《ふだ》だけかけられており、それが辛《かろ》うじてドアが開く証《あかし》に思えた。  ノブを掴《つか》んで、ドアを押す。  ちりりん、と軽《かろ》やかな、ベルの音とともにドアは開いた。  ベルの音と入れ替《か》わるように、どこか哀《かな》しげなピアノの音が耳に飛び込んでくる。  暗めの室内灯だったが、何人かの人の姿が見えた。 (人気のある店なのかな)  まだ早い時間なのに、そこそこの人の姿があることに、修司はそんな感想を持った。 「いらっしゃい」  カウンターの奥《おく》にいる初老《しょろう》の男が、修司に向かってそう言った。  店のマスターらしき初老の男はそれっきりで、修司が来たことで中断していたグラスを磨《みが》くことに専念する。  カウンターには三人。二人の青年に挟《はさ》まれて、女の子がひとり。  青年たちのほうは、一見すると対照的で、体育系と文化系の見本みたいな二人である。二人とも長身なのだが、ひとりは精悍《せいかん》な顔立ちのがっしりとした体躯《たいく》の青年で、もうひとりは眼鏡《めがね》をかけた、線の細い長髪《ちょうはつ》の青年だった。  そんな二人に挟まれた——中学生くらいだろうか——店には不釣《ふつ》り合いなくらい若い女の子がスツールの上であぐらをかいている。女の子が若すぎて、どちらの青年ともカップルであるようには見えない。  三人して、しばらく修司を見ていたが、二人の青年は興味をなくしたかのように、カウンターへと体を戻した。女の子のほうは、遊びたい盛《さか》りの仔猫《こねこ》のような瞳《ひとみ》で修司を見ていたが、体育系の青年に頭を掴まれるとネジでも巻くかのようにスツールを回転させられた。  店の奥《おく》に置かれたピアノの前には長髪の美女が鍵盤《けんばん》の上に指を走らせているのが見えた。彼女は修司に対して一度も目をくれることはなかった。  そして、テーブルのひとつに、二人の男がいた。  ひとりは、眼鏡をかけた小太りな青年だ。前屈《まえかが》みに椅子《いす》に腰《こし》かけ、テーブルに置かれたノートパソコンのキーボードをカチャカチャと忙《いそが》しそうに叩《たた》いている。彼は修司が来たことを気にすることなく、パソコンの液晶《えきしょう》のモニターを見入っていた。  その後ろに、八環がいた。  八環は、小太りの成年の座《すわ》る椅子の背もたれに腕《うで》を置き、液晶の画面を注視していたが、青年の指の動きが一段落すると、修司へと向き直った。 「来たか」  八環が修司を手招《てまね》きする。ついでになにか飲むかと訊《たず》ねられ、修司は「ウーロン茶を」と答えた。  小太りの青年の横に椅子をすすめられ、修司はそこに座る。八環に言われ、青年はパソコンの液晶画面を修司の位置からでも見えるようにずらした。  修司がモニターへと目を向ける。  画面|一杯《いっぱい》に細《こま》かい文字が表示されており、なんらかのデータであるのはわかる。データの上部に目を移すと、�……警察署資料室|部外秘《ぶがいひ》�とあった。 「なんです、これ?」  修司が率直な意見を口にする。 「昨日《きのう》話した、事件のデータだ」 「僕《ぼく》にかかれば、こいつを引っ張り出すのに五分もかかりませんでしたけどね」  八環の言葉に青年が自慢気《じまんげ》に言葉を続ける。そんな彼にどう答えていいのかわからずにいると、八環が彼の名が大樹《だいき》であると教えてくれた。とりあえず修司は、大樹に自分の名を告げて会釈《えしゃく》する。  再《ふたた》び顔を上げたときには、大樹はマウスを手に画面を操作していた。  そんな彼の態度を、修司は少しばかり不快に感じたが、八環がそれを気にする暇《ひま》を与えなかった。  テーブルの空いていた空間に地図を広げる。  それは東京都西部のタウンマップで、所々に赤い点が打たれたものだった。  そのことに修司が気づくと、八環が告げた。 「そいつは、一連の交通事故があったところだ。どうだ、一地域に集中してるだろ」  言われてみると、確かにそう思えた。よく見ると、地図の右の欄外《らんがい》には「御徒町駅、二件」ともある。 「京王線に集中してますね」 「それだけじゃない」  八環の指が、地図の上で円を描《か》く。 「鉄道だけでなく、道路への飛び込みも調布《ちょうふ》市、もしくは周辺の区や市だ」 「そうみたいですね……」  あまり興味のないような口振《くちぶ》りで、修司は答えた。 「それは、さておき」  修司のことを気にすることなく、八環は続ける。 「写真のことだが……」  言われると、修司は鞄《かばん》の中にあった旅と渓谷社と印刷された紙袋《かみぶくろ》を取り出した。少し厚みのある紙袋をひっくり返すように、修司は中の写真をテーブルの上に出した。山手線とその各駅の様子が写った写真が重なる。写真の間には、ネガまで挟《はさ》まっている。 「朝、電話で話したのは……これです」  修司が、一枚の写真を取り出す。  それは、御徒町駅の様子を写した一枚の写真だった。  ホームの南端から北へ向かって撮られたもので、扉《とびら》を開いて停車している外回りの山手線と、改札《かいさつ》へと至る階段が写っている。扉が閉まる直前だったのか、ホームには階段へと向かう客の姿しか写っていない。 「ここに、いたんだな」  八環の言葉に、修司は頷《うなず》いた。 「この写真のシャッターを切ったとき、たしかにそこに帝女の制服を着た子がいたのを見たんですよ。でも、現像《げんぞう》したら彼女が写ってなくて、なんだか気味が悪い……」  そこまで言ったとき、修司はカウンターにいた青年と女の子が自分のほうを向いていることに気がついた。こちらの視線に向こうも気づいたのか、三人はくるりとカウンターに体を戻《もど》し、また、なにやら話し始める。 「あれ?」  そう言ったのは大樹だった。  彼は、マウスを動かしていた手を休めると、修司へと向き直った。  そしてもう一度、モニターを一瞥《いちべつ》してから大樹は訊《たず》ねてきた。 「あなたの名前……たしか柳瀬さんって言いましたよね」 「え、ええ……」 「住んでいるのは、調布市内ですね」 「……そうですけど」  照明の角度のせいだろうか。修司には、大樹の眼鏡《めがね》が光ったように見えた。 「三陸会《さんりくかい》病院に入院している�柳瀬|暁子《あきこ》�って人、知ってますか? 帝都女子校高等部、三年A組に在籍《ざいせき》している……」  大樹の言葉に、修司は息を飲んだ。そんな彼を見て、八環もモニターへと目を向ける。 「単に同姓《どうせい》ってわけじゃ、なさそうですね」  大樹が、遠慮《えんりょ》することなく、修司に追及《ついきゅう》の言葉をかけてくる。  モニターには、顔写真入りで�柳瀬暁子�と書かれた人物が映《うつ》っていた。八環も、一度それに目をくれた後、修司の言葉を待った。 「俺《おれ》の……妹です」  修司が重い唇《くちびる》を動かした。 「大樹、柳瀬の妹がどうかしたのか?」  八環の問いかけに、大樹は眼鏡のずれを直しながら答え始めた。 「一連の事件に関係ありそうな人を調べていたら、検索《けんさく》の網《あみ》に引っかかったんですよ。彼女は列車事故のほうですね。警察では、現場に居合《いあわ》せた人の証言《しょうげん》から事故として処理してますけど……ええっと」  マウスを操作して、大樹が別のデータをモニターに表示する。 「彼女の事故は三ヵ月ほど前になりますね。京王線のつつじが丘駅で、通過する特急電車に頭を強く打った事故……ですね?」  大樹が確認してくる。  八環も事実なのかと訊くと、修司は小さく頷《うなず》いた。  少しうなだれた修司の前にコースターが敷《し》かれ、その上にウーロン茶の入ったグラスが置かれる。  顔を上げると、それを運んできたマスターが、人の良さそうな笑《え》みを浮《う》かべていた。  修司はグラスを手に取ると、渇《かわ》いた喉《のど》と唇を湿《しめ》らせてから切り出した。 「変な話ですけど……」 「かまわない。ここでおまえの話を信じない奴《やつ》はいないからな」  八環の言った言葉の意味はわからなかったが、どこか修司の心を安心させる響《ひび》きがあった。耳に入り込んでくるピアノの曲も、いつしか穏《おだ》やかな調《しらべ》のものに変わっている。 「御徒町駅で女子高生を突《つ》き飛ばしたのが、入院している暁子に見えたんですよ。そのときは、誰《だれ》かと見間違《まちが》えたとはとても思えませんでした。帝女の制服も着てましたし……だから、あのとき思わず、八環さんには友達の妹だって嘘《うそ》ついてしまったんです」 「妹さんかどうかはともかく、昨日のことは誰かがひとりの人間を殺そうとした事件なわけだ」  八環は、修司が友達の妹と偽《いつわ》ったことを言及《げんきゅう》しなかった。 「でも考えてみれば、暁子じゃないってすぐに思ったんですけど、今日《きょう》、旅と渓谷社でフィルムを現像したときに、写真……ネガになにも写ってなかったのを見て……」  一旦《いったん》、言葉を止める。そして、手にしていたグラスの中身を一気に飲《の》み干《ほ》してから修司は話し始めた。 「暁子の生《い》き霊《りょう》でも出たんじゃないかと思ったんです」 「生き霊だって? 霊《れい》ってのは……」  大樹がなにかを言おうとしたが、それを八環が手で制する。  修司は、自分の顔が紅潮《こうちょう》するのを感じた。自分がなんだか子供じみたことを言ってしまったように感じたせいだ。 「妹さんが、退院したってことはないのか」  八環は修司に対して真顔《まがお》で接した。顔の火照《ほて》りを冷《さ》ますように、修司は首を横に振《ふ》る。 「あのおかしな写真を見た後、すぐ病院に行きましたが、暁子は病院で眠ってました」 「おまえの妹さんを疑うような言い方ですまないが、昨日だけこっそりと病院を抜け出したってことは?」 「それは考えられません」 「どうして?」 「暁子は動けないんです」 「動けない、なぜ?」  矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問してくる八環に、修司はふと、疑問に思ったことを口にした。 「どうして、八環さんは事件のことを調べてるんですか?」 「そいつは……」  八環が言葉に詰《つ》まる。それを、今まで黙《だま》るようにと八環に指示されてた大樹がフォローする。 「あなたの妹さんも、被害者《ひがいしゃ》の可能性があるんだ。警察に任《まか》せられない事件を調査する……いわば、正義《せいぎ》の味方ってとこかな。ここはその、秘密基地」  これでいいのかと言う視線を、大樹が八環に投げかける。八環は、肩《かた》をすくめて応《こた》えた。 「本当に、探偵《たんてい》をしてたんですね」 「まあ、そんなところ……かな」  複雑な笑みを浮かべながら、八環が答える。しかし、修司が納得《なっとく》するならば、それでもいいかと思い、質問を続けた。 「さっきの質問だが、差《さ》し支《つか》えがなければ答えてほしい。妹さんが動けないってのは……」 「三ヵ月前の事故が原因なんです」  八環が言い切る前に修司は、努《つと》めて静かに言った。 「あのとき暁子は頭を打ったんですよ。だから、今も植物状態なんです」        *       * 「城南《じょうなん》大学3年生、片江《かたえ》光治《こうじ》。次の目標はこいつだ。血中|脂肪値《しぼうち》が高いから、おそらく太った奴だろう」  白衣の男が、宙《ちゅう》に浮かぶ <少女> に向かって言った。手には、カラープリンターで打ち出されたばかりの紙があり、それを彼女に見せつけている。  紙には、学生証に張り付けられているような写真が、少し拡大して印刷されてあった。そのせいか、印刷の画質がいささか荒《あら》く、色もどこか薄《うす》い。色の薄さは、宙に浮かんでいる少女ほどではないが。  ここは、ひとつの事務机が置かれ、壁《かべ》の一画を本棚《ほんだな》に埋《う》められた小さな部屋だった。  事務机の上には、ディスクトップのパソコンとプリンターが置かれ、少なからぬ書類が積まれている。書類の多くは、カルテなど医療《いりょう》関係の物だ。本棚に収められた本も、医学系の書物で、外科手術関連の物が多くならんでいる。 「……ねえ、父さん」  写真を見ながら、 <少女> が訊《たず》ねる。 「いつになったら、あいつらへの復讐《ふくしゅう》に協力してくれるの。昨日《きのう》もあいつを目の前で逃《に》がしちゃうなんて……あたし、悔《くや》しいよ!」 <少女> が、半べそをかく。そんな彼女に、男は笑顔で答えた。 「おまえが、ちゃんと私の手伝いをしてからだよ。おまえは一生《いっしょう》懸命《けんめい》やってくれてはいるが、まだ一度も、私の役に立っていない。自殺でも事件でもなく、うまく事故に見せかけてくれんとな。警察が動くと、なんの意味もないのだから」  男が <少女> の頭に手を伸《の》ばした。撫《な》でるように手を動かしたのだが、その手は彼女の頭を擦《す》り抜《ぬ》けた。  男が手を止めたのを見て、 <少女> はそれに応えた[#「応えた」に傍点]。  少しずつ、薄かった彼女の姿が明らかになってくる。  再《ふたた》び、男が手を伸ばす。  彼の手は、今度はちゃんと <少女> の頭を撫でることができた。 「ねえ、父さん」 「なんだ?」  男の手が止まる。 「方法にこだわらなければ簡単じゃないの。父さんが眠《ねむ》らせて誘拐《さら》ってくれはいいのに。そしたら、いくらでも……」 <少女> の言葉に、男の表情が崩《くず》れた。さっきとは打って変わって、言葉も荒々《あらあら》しくなる。 「つまらんこと言ってないで、さっさと行け。あの駅で張り込んでいれば見つかるだろう。そのときはすぐに連絡するんだぞ!」 <少女> は、不貞腐《ふてくさ》れた顔を男に向けたまま、窓から外へと飛び出した。  宙に浮いていた <少女> の姿は、風に流される木の葉のように消えていった。        *       *    4 白い部屋 「それじゃ、帝都女子校高等部の被害者《ひがいしゃ》が、一番多いんですね」  白い、大きな建物を前にして柳瀬修司が言った。 「ああ、そうだ。でも、本当にいいんだな」  修司の隣《となり》にいた八環が言う。彼は目の前にある建物を見上げている。もうここへ幾度も足を運んでいる修司も、八環に倣《なら》って建物を見上げた。  茶色がかった煉瓦調《れんがちょう》の壁《かべ》が高くそびえている。窓の数を数えると、少なくとも十二階以上ある建物だ。 『三陸会《さんりくかい》病院』  建物の上部には、そう書かれた看板《かんばん》が一文字ずつ並《なら》べられてあった。  三陸会病院は、京王線つつじが丘駅の南に歩いて十分のところに位置し、市内では最大のベッド数を誇《ほこ》る総合病院だ。もちろん救急病院でもある。平成十年には、臓器移植ネットワークによる臓器|摘出《てきしゅつ》の指定病院にもなっていた。  修司と八環の二人は、一連の事件の手がかりを得るべく、この場所にいた。  三陸会病院に手がかりを求めたのは、 <うさぎの穴> で修司の言った「妹らしき人物が、被害者の背を押した」という言葉からだ。  だから、八環は修司に「いいのか?」と訊《き》いた。 「ええ、かまいません」  その八環の言葉に、修司が端的《たんてき》に答えた。  二人は、この病院に入院している柳瀬暁子の病室を訪《おとず》れるつもりなのだ。  暁子の状態が状態だけに、さすがに身内《みうち》でないと病室に入りにくいことから、修司の同意を得て、いまに至る。 <うさぎの穴> を出たその足で二人はここに来たので、陽《ひ》は赤く焼けた西の空に傾《かたむ》いており、東の空は紫色《むらさきいろ》に染まりつつあった。  急がないと今日の面接時間に間《ま》に合わないとの修司の言葉に、二人は駆《か》け込むように病院の中に入っていった。  その病室は自かった。  ここは小さな個室。壁紙《かべがみ》がくすんだ白い色をしており、窓の外に迫《せま》り来る夕闇《ゆうやみ》を際立《きわだ》たせている。  白い壁際《かべぎわ》に機械が置かれてあった。  そこから伸《の》びるコードやチューブが、ベッドの上につながっている。  白いベッドの上。  そこに、白いケットに覆《おお》われた柳瀬暁子が眠っていた。  心電図に繋《つな》がるコードが胸に伸び、口許《くちもと》には人工|呼吸器《こきゅうき》らしきものが取り付けられている。 「眠ってるみたいだな……いや、眠っているのだったな」  暁子の姿を見た八環が言った。 「朝来たときと、なにも変わってません。暁子はずっと寝たままです」  八環は、修司の言ったとおりだと思った。  たしかに、彼女は眠っているようにしか見えないが、起きる気配をまったく感じることができなかったからだ。 (彼女は被害者《ひがいしゃ》であって、それ以上に事件にかかわっているとは考えられない……)  八環がそう思ったときだった。  閉じられていた病室の扉《とびら》が開いた。 「こんにちは」  声とともに白衣の、医師らしき男が部屋に入ってきた。  身長一六〇センチほどの背の低い男で、閉じているのかと思うほど、目の細いのが特徴的《とくちょうてき》だ。  首からかけた聴診器《ちょうしんき》が胸の辺《あた》りで揺《ゆ》れている。ときおり聴診器が、こつんとネームプレートに当たる。ネームプレートには、�砂川《すながわ》靖雄《やすお》�とあった。  医師を見た修司が、会釈《えしゃく》する。 「昨日のことですが、考えていただけましたか?」  砂川という名の医師は、にこやかな笑《え》みを浮《う》かべながら切り出した。いや、意識して笑みを浮かべたのかどうかはわからなかった。彼の細い目は、目尻《めじり》がやや垂《た》れ気味《ぎみ》で、すましていても微笑《ほほえ》んでいるように見えなくもない。 「あ、ええっと、……」  修司の答えに、砂川は耳を傾《かたむ》ける。なんのことだかわからない八環は、黙《だま》って二人のやり取りを見守ることにした。しかし、知らないのか忘れたのか、修司の態度は明らかに質問の意図《いと》を解してない様子だった。 「あれ?」  砂川が八環のほうを向いた。  細かった目が、少しだけ開かれたように八環には見えた。 「ご家族のかた……ですよね」  確認の言葉は、修司へと発せられた。 「ああ、あの件ですか。それならば、たとえそれが妹の意志であっても受けかねると、母が申しておりました」  いま修司が答えたのは、最初に砂川がした質問に対するものだった。 「お兄《にい》さん自身は、どうお考えなのですか?」  砂川の応対も、瞬時《じゅんじ》に、最初の質問に切り換《か》わったようだった。それでも、やはり、八環には会話の内容が見えてこないことに変わりなかったが。 「俺《おれ》、ですか……」  修司が言葉を濁《にご》す。そんな彼に、少し背伸《せの》びをしながら砂川は言った。 「妹さんのご意志を、尊重《そんちょう》してあげないのですか?」 「そうですけど……でも、しかし……」  突《つ》っこんだ意見だったのだろうか、修司が言い澱《よど》む。 「すまないが、なんのことだかさっぱりわからない。差し出がましいかもしれないが、よかったら説明してくれないか?」  と、痺《しび》れを切らした八環が説明を求めた。 「はあ?」  砂川が、再《ふたた》び細い目を八環に向ける。 「あなたは、誰《だれ》です? 暁子さんの、ご家族でいらっしゃらないのですか?」 「この人は、俺の仕事先の先輩なんです」  答えたのは修司だった。  その言葉を聞いた砂川は、急に態度を変えた。目尻《めじり》が釣《つ》り上がり、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄っている。 「ここがどういうところか知っているのか?」  口調まで荒《あら》くなっており、そのあまりの豹変《ひょうへん》ぶりに、八環は思わず首を振《ふ》った。 「ここは、重病人を扱《あつか》ってる病室だ。家族さえ面会時間が限られているというのに、のこのこと部外者に入ってもらっては困る! さあ、とっとと出てってくれ!」 「先生、この人は俺が連れてきたんです。家族同然の付き合いをしてる人なんですけど、それでもだめなんですか?」 「規則ですから」  きっぱりと言うと、砂川は八環の退室を促《うなが》した。  あっけにとられ、しばし言葉を失っていた八環だったが、たしかに目の前の医師の言うことももっともだと判断して、部屋を後にしようとする。  修司が砂川に抗議《こうぎ》する声を背に受け、八環が退室しようとしたときだった。 「あっ!」  砂川が小さく叫《さけ》ぶ声が聞こえた。  何事かと八環が振り返ると、砂川は飛びつくように窓際《まどぎわ》のカーテンを引いていた。窓の外、夜の闇が、白いカーテンに覆《おお》われる。 「も、もう面接時間を過ぎているではないか!」  どこかわざとらしく、砂川は腕時計に目を向けていた。  修司が、胸にあった携帯電話《けいたいでんわ》を取り出して時刻を確認する。病院内であるため、電源はオフになっていたが、時計機能——現在時刻の表示だけは生きていた。  時刻は午後六時を少し回ったところ。  たしかに、砂川が言うとおり面会時間は過ぎていた。しかし、少しくらいは融通《ゆうずう》がきくものだと、修司は思っていたのだが…… 「これから検診《けんしん》を行なうから、出てってくれ」  と、砂川に有無を言わさぬ強い口調で言われた。 「行こう、修司」  砂川に面接時間の延長を頼《たの》んでいた修司だが、八環がそういうのならと病室を後にした。  二人が部屋から出るあいだ、砂川はずっと「早く出なさい!」と二人の背中を言葉で押《お》し続けた。  外はすっかり暗くなっていた。  病院の敷地内《しきちない》では、小さなガス灯を模《も》した明かりが灯《とも》っている。  三陸会病院とある看板《かんばん》もライトアップされ、救急|患者《かんじゃ》用の入口にあった赤色灯も夕刻に増して目立っていた。  まだ、外来患者の診察《しんさつ》時間であるらしく、正面|玄関《げんかん》の人の動きは活発だ。  そんな玄関の見える位置で、修司と八環の二人は敷地内のリハビリテーション用の散歩道|沿《ぞ》いにあるベンチのひとつに腰《こし》を下ろした。 「なあ、柳瀬」  八環が訊《たず》ねる。 「さっきの砂川とかいう変な医者だが、おまえとなんの話をしようとしてたんだ? 妹さんの意志がどうのこうのと言ってたが」 「ああ、あれですか。あれは、病院のほうから妹の臓器を提供してほしいって打診《だしん》があったんですよ。昨日《きのう》、電話で」 「臓器の提供? そいつは、移植ってことか?」 「ええ、そうです。なんでも暁子は、ドナーカードで臓器提供の意思表示をしてたみたいなんです。あらゆる条件の死亡時に、すべての臓器を提供すると。だから、病院としては、あとは家族の同意を得るだけだって連絡がありまして」 「でも、妹さん。回復する可能性はないのか」 「それは俺も訊《き》いたんですが……」  修司の表情が翳《かげ》る。 「もう、回復する見込みがないって、はっきりと言われたんですよ。だから、多くの人命を救えるように、暁子の意志に応えてくれと言われたんですけどね……」 『その踏《ふ》ん切りがつかない』  続く言葉がそうであることは、八環にも容易に想像することができた。 「回復する見込みがないとは、残酷《ざんこく》な言い種《ぐさ》だな。まあ、あの砂川って奴なら、容赦《ようしゃ》なく言いそうな感じだがな」  さっきの医者のことを思い出す。どこか慌《あわ》てており、患者の家族に配慮《はいりょ》しない砂川の態度に、八環は不信感を拭《ぬぐ》うことができなかった。 「……おい、柳瀬」  と、声をかける。 「なんです? 八環さん」 「おまえの携帯《けいたい》、ちょっと貸してくれないか」  そう言われて、修司は携帯電話を取り出した。  八環に渡《わた》す直前に、思い出したように修司は言った。 「あれ? 八環さん。たしか、病院に入る前に、一緒《いっしょ》に携帯の電源を切ってたじゃないですか」  と、修司は八環に、自分の携帯電話をどうしたのかと訊ねた。たしかにさっき、二人で携帯の電源を切ったはずだった。それが、自分の記憶違《きおくちが》いであっても、ここに来るまでに、互《たが》いの携帯電話の番号を教えあったのだから、八環が携帯電話を手にしていたのは確実なはずだ。 「ちょっとな。ある場所に置いて来ちまったんだ」  そこまで言うと、修司が持ったままだった携帯電話を奪《うば》うようにして手にする。  修司は訳《わけ》がわからないまま、八環の行動を見守った。  八環が、自分の物であるかのように、修司の携帯電話を器用に操作する。ひとしきりボタンを押した後、八環はそれを耳に当てた。  どこかに電話をかけたのかと修司は思ったのだが、八環は一言も発しない。そして、三十秒もすると、電源を切って修司に放り投げて返した。 「なにをしたんです?」  たまらず、修司は八環に訊いた。 「着信記録を見てみな」  ただそれだけ、八環が告げる。  見ると、たしかに着信が一件あった。時間はほんの数分前。そして発信者は、今日|登録《とうろく》したばかりの�ヤタマキ�とあった。  着信メッセージを再生し、修司は携帯電話を耳に当てた。 「誰《だれ》か来てたの?」  聞き覚えのある声がした。 「検診《けんしん》で看護婦《ナース》を連れてきていたのだ。目覚《めざ》めないとはいえ、寝《ね》かせておけばいいだけの患者ではないからな」  これも聞き覚えのある男——砂川の声だった。 「嘘《うそ》よ! さっき扉《とびら》の向こうに黒い服が見えたわ。本当に看護婦なの?」 「それは介護人《かいごにん》だ。よけいな詮索《せんさく》をするな。それより、奴《やつ》は見つかったのか」 「片江って奴なら、仙川《せんかわ》駅近くのマンションの九階に住んでたわよ。父さんの言ってたとおり、太ってたよ」 「脂肪《しぼう》のついたゾウ……」  ピーッ!  電子音が割《わ》り込んで、会話は途切《とぎ》れた。  時間にして、約二十秒ほどの会話だった。 「この声は……」  ゆっくりと携帯電話を耳から離《はな》しながら修司は言った。 「間違《まちが》いない……暁子の声だ」 「そうか。元気のいい声だったが、妹さんに間違いないんだな」 「はい。でも、八環さん。これは一体《いったい》、どういうことなんです?」 「どういうことかと聞かれても、俺《おれ》には答えられない。ただ言えることは、俺の携帯をおまえの妹さんの病室に置いてきたってことだ。どういうわけだか、あの砂川って奴、妹さんと話ができるみたいだな」  言いながら、八環はすっくと立ち上がった。  修司も立ち上がると、すぐに、病室に戻《もど》るべく駆《か》け出した。  後を追うように、八環も続いた。    5 笑い声  廊下を走るなと注意されるのをよそに、二人は暁子の病室へと駆け戻る。  彼女の病室は五階であり、ふつうならエレベーターを使って移動するところを、待ち時間が惜《お》しいと、非常用階段を二人は駆け昇《のぼ》った。  個室|病棟《びょうとう》の五階。  カメラを片手に日頃《ひごろ》から走り回っており、体力には少なからぬ自信のあった修司だったが、いつしか中年男の背を追う形になっている。  柳瀬暁子——そう書かれたプレートのある病室の前に、二人がやってきた。正確には、八環が三秒ほど早い。  修司が自分の後ろについたのを見計らって、八環がドアに手をかけた。  ガチャッ。  扉が開くと、中から男が、つんのめるようにして出てきた。  砂川だ。  修司の携帯電話に録音されていた声の、一方の主。  彼もドアを開けようとしていたのだろう。砂川の右手は伸《の》ばされたままになっていた。  八環は砂川を押《お》し退《の》けるようにして部屋の中に入る。修司も後に続いた。  二人に押される形となった砂川は、手にしていたいくつもの書類を床《ゆか》にばらまいた。  そのことを気にすることなく、八環と修司が、病室の中を見渡《みわた》した。  気配を、八環が感じる。  誰《だれ》かいる……なにかが息衝《いきづ》く気配。  ベッドに視線を移す。  そこでは、数分前に見たときと同じ状態で眠《ねむ》る柳瀬修司の妹、暁子がいる。血色の悪い、白い肌《はだ》からは、元気な声を発していたようには見えない。起き上がることなど、もってのほかだと思えた。  しゃがんだ八環がベッドの下を見るが、誰もいないどころかなにも置かれておらず、ただ、薄暗い影《かげ》の向こうにやはり白い壁《かべ》が見えただけだった。  立ち上がってもう一度、部屋の中を見渡すが、他に人が隠《かく》れられるような場所はなかった。八環がそうしていた間、修司はじっとベッドに眠る暁子に目をとられていた。 「な、なんだね、君たちは!」  血相《けっそう》を変えた砂川が、しゃがんでいる八環の前に立って怒鳴《どな》りつける。落ちた書類を拾おうともしない。怒鳴りながらも、彼の手は忙《せわ》しなく首にかけた聴診器《ちょうしんき》をまさぐっていた。  八環が立ち上がったとき、彼の後ろにいた修司が踏《ふ》み出す。 「妹は? 妹がさっき話して……」 「こいつから聞いたんだが!」  修司の言葉を遮《さえぎ》って、八億が大声で砂川に訊《たず》ねた。訊ねながら修司の服の襟《えり》を掴《つか》み、自分の横に、ものすごい勢いで引っ張った。修司の足が、宙《ちゅう》に浮くほどの力で。 「ドナーカードってのを見せてほしいんだ。いや、俺じゃない。こいつが確認したいって言うから、慌《あわ》てて戻《もど》ってきたんだ。それくらいはいいだろ? カードを見せてくれたら、すぐに帰るから!」 「八環さん!」  不満を隠しきれず、修司が訴《うった》えようとするが、八環はそれを目で制した。その鋭《するど》い眼光に、狩猟者《しゅりょうしゃ》に睨《にら》まれた獲物《えもの》のように、修司が怯《ひる》む。 「カードなら……」  いいながら、砂川は手を広げて八環らを病室から追い出すようにする。 「そこに落ちている」  砂川は、廊下に散乱している書類に目配《めくば》せした。  その中に、黄色い一枚のカードが混《ま》ざっているのが見えた。  八環が拾い上げる。  黄色いカードには、臓器提供意思表示カードと記《しる》されている。  突《つ》き出すように、八環が修司にそれを見せる。 『盗聴《とうちょう》したことをバラすようなことを言うな』  小声でそう言いながら、八環は修司に署名が暁子のものか確認させた。いつ回収したのか、手には彼の携帯電話《けいたいでんわ》が握《にぎ》られている。  数分前に砂川が言ったように、カードには柳瀬暁子の署名があり、提供可能な臓器としてカードに記されてあったすべての臓器(と角膜《かくまく》)が丸で囲まれ、臓器提供の意志があることが示されていた。ただ、家族署名の欄《らん》だけが空欄となっていたが。  修司はカードを手に取ると、いま一度、妹の署名に目を向けた。  たしかに、署名は暁子のものだった。  ベッドの上の署名の主に目を向ける。  眠《ねむ》り姫《ひめ》の寝息《ねいき》は聞こえない。ただ、電子音がそれを代弁していた。        *       *  数分後。  砂川は三陸会病院の二階にある自室にいた。  窓越《まどご》しに、病院から出て行く修司と八環、二人の招かれざる客の姿を見ている。 「さっき部屋に来てたの、あいつらだったんだね。どうして、あたしに嘘《うそ》をついたの? 父さん……」  砂川の傍《かたわ》らにいた <少女> が言った。彼女は宙に浮いたまま、砂川の肩《かた》に腰《こし》を下ろすような姿勢をとっている。  帝都女子校高等部の制服を着た <少女> 。  その体つき、その顔は、柳瀬暁子。  そっくりなのではなく、寸分違《すんぶんたが》わず、 <少女> は柳瀬暁子の姿をしていた。 「おまえの気分を損《そこ》ねたくなかっただけだ。家族の話をすると、とにかくおまえは不機嫌《ふきげん》になるからな」  砂川は、視線を窓の外に向けたまま答えた。  否定する <暁子> の言葉が続いたが、砂川はそれ以上、なにも答えなかった。 「ドナーカードがどうしたとか言ってたみたいだけど……確かめてくれたの? 兄貴《あにき》たちが、あたしをどうしようってのかを」 「ああ、それなら……」  ようやく、病院の敷地《しきち》から出て行った二人を見送ってから、砂川は暁子に話を始めた。 「そうなんだ。やっぱりあたしを、お金で売るつもりなんだ……」  声を押し殺しながら、 <暁子> は言った。押し殺していたのは声だけではない。爆発《ばくはつ》寸前の感情と目に溜《た》まるものの二つ。 「ああ。おまえに署名《かか》させたドナーカードを見て、小躍《こおど》りして喜んでいたよ。渡《わた》りに船って顔をしてな」  そんな <暁子> の様子を気にすることもなく、いつしか悠然《ゆうぜん》と椅子《いす》に腰《こし》を下ろしていた砂川が答えた。  沈黙《ちんもく》がおりる——が、すぐに急患《きゅうかん》を運んできた救急車のけたたましいサイレンの音が部屋の隙間《すきま》を埋《う》めた。  サイレンの音は、次第《しだい》にその音量を増してゆき、最高潮《さいこうちょう》に達したときにやんだ。  窓から差し込んでくる赤色回転灯の光が、砂川の影《かげ》を壁《かべ》に明滅《めいめつ》させる。 「父さん……」  赤い光で影を作らない <暁子> が、口を開く。頬《ほお》を流れ落ちるものも例外なく、光を透過《とうか》している。 「あたしの体、父さんが好きなようにしてくれていいよ……」  そこまで言ったところで、 <暁子> の押《お》さえていた感情に火がついた。 「あの、忌《い》ま忌《い》ましい連中と血の繋《つな》がってる体なんかいらない。だから、あいつらを……柳瀬の人間を殺すの手伝ってよ! そして、汚《きたな》らしい臓物《ぞうもつ》をばらまくの。黒ずんだ臓器でも喜ぶ人間にね。そのほうが、父さんにとっても都合《つごう》がいいじゃない。父さんの手なんか、もうとっくに汚れてるんだからさ!」  怒《いか》りという極《きわ》めて引火性の強い感情は、爆発するだけで収縮する気配を見せなかった。  それに対し、皮肉《ひにく》られた砂川は、僅《わず》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めただけで動じない。そのまま、開いていたのかどうかわからない瞳を閉じると腕《うで》を組んで考え込む。  そんな砂川の態度にかえって気勢を削《そ》がれたのか、 <暁子> は少し口振《くちぶ》りを変えた。 「先にあいつらを殺しちゃえば、面倒《めんどう》くさい手続きも要らなくなるじゃない。本人[#「本人」に傍点]の意志が尊重《そんちょう》されるんでしょ。なんだったら、父さんの力で『娘の臓器提供に同意する』って、母《かあ》……あの女に遺書を書かせればいいだけじゃない」  どこか媚《こ》びるような口調で <暁子> が提案する。  猫《ねこ》の目のように態度を変えた <暁子> に向かって、砂川がしばらく閉じていた口の封《ふう》を解《と》いた。 「……わかった。そろそろおまえの復讐《ふくしゅう》の手伝いをしてやろう。だが、ひとつ約束《やくそく》をしてほしい」  神妙《しんみょう》な砂川の言葉に、 <暁子> があらたまる。 「いままでどおり、私の手伝いを続けてほしい。そして、できれば、いままで辛《つら》いことを言ってきたかもしれんが、これからも私のことを父と呼《よ》んでくれないか。家族のない私だが、いまではおまえのことを、本当の娘《むすめ》のように思っているんだよ」  砂川の言葉に、 <暁子> は息を飲んだ。 「構わないよ。あいつらを殺《や》れるんなら。それにあたしは、家族は父さんしかいないと思ってるんだから」  頬《ほお》を、今度は違う感情で溢《あふ》れでたものが、伝う。 <暁子> にはそれが、熱く感じられた。  それを見た砂川が、慈《いつく》しむように細い目を向ける。 「そうか。ありがとう」  そう言った後、砂川は立ち上がり、窓の外へと目を向けた。彼の眼下には、役目を終えた救急車が赤色灯を消し、病院から出て行くところだった。  窓に自分の顔が映《うつ》るのが見えた。  目が大きく開かれ、ほくそ笑《え》んでいる。 (スタッフは集めた。判定医師の買収にも成功している。あとはこの女、いや娘[#「娘」に傍点]が献体《けんたい》を作るのを待つだけだ。そうすれば、いよいよ私が、表の世界でも実力を世間《せけん》に知らしめることができる……)  自分の都合通りに動くようになった <少女> にとても見せられない残忍《ざんにん》な笑みだと、砂川は自分でそう思った。 「では、行こうか。まずは、さっきここに来たお兄さん、修司くんからにしようか」  振《ふ》り向いた砂川が、またもとの——目尻《めじり》の下がった細い目の——笑顔を浮かべながら、暁子に言った。 <暁子> が黙《だま》ったまま頷《うなず》く。 「彼の臓器は要《い》らない。だから、別に事故に見せかけなくていいからな。そのかわり、一回で決めるんだぞ。私はそれほど暇《ひま》じゃないからな」        *       *  つつじが丘駅、上り(新宿方面行き)ホームに、修司と八環はいた。  八環は、沿線案内の広告の看板《かんばん》前にある椅子《いす》に座《すわ》り、修司はそのまえに——八環に背を向けるように——立っていた。  二人とも、黙《もく》したまま語らない。修司は真一文字《まいちもんじ》に口を閉じ、八環は火のない煙草《たばこ》をくわえたままである。  修司は、ただ、駅の南、三陸会病院のほうを見つめていた。いま自分のいる足場は、妹が事故に遭《あ》った場所でもある。そのこともあり、複雑な思いが修司を支配していた。  二人の沈黙《ちんもく》は、病院を出てからずっと続いている。  暁子の病室を離《はな》れてしばらくの間。修司は、どうして電話で聞いた暁子の声のことを確認しなかったのかと、八環に説明を求めたのだが、八環は後で話すの一点張りで、修司に明確に答えてない。 「俺《おれ》を信じろ!」  と、一言で修司を黙らせようとした。  しかし、なおも修司は引かずに喰ってかかったため、八環は、説明はすべて <うさぎの穴> でするからとにかく信じてくれ、と今度は諭《さと》すように言った。  わざわざ渋谷《しぶや》に行くことに、修司は不満を覚えた。慕《した》っていた人物だけに、その不可解な行動に対する反発は、態度にこそ現れなかった。  そんなこともあって。  修司は今も、八環に従《したが》うかどうか迷《まよ》っていた。  修司の家は、ここから北へバスを使って十分足らずの所にある。歩いても、帰ることのできる距離《きょり》だ。  家に帰ることもできるし、自分だけ病院に戻《もど》って医師に説明を求めることもできる。  修司の選択肢《せんたくし》は、そんな二択になっており、八環に同行して渋谷に戻るというものはすでになかった。  ただ、それを八環に対して言いにくかった。  反発したものの、「信用しろ」という彼の言葉は、修司を考え込ませるのに充分《じゅうぶん》な響《ひび》きを含《ふく》んでいた。 「なあ、柳瀬」  そんな修司の考えをよそに、八環が煙草をくわえたまま訊《き》いた。 「妹さんが、ドナーカードを持ってたこと、知ってたのか?」  その言葉に修司が首を横に振《ふ》る。 「昨日《きのう》の砂川先生からの電話で、初めて知りました。そんなカードを持っているのかなんて、わざわざ訊《たず》ねることでもありませんし」 「そいつは、もっともだ。で、どうするんだ柳瀬? 妹さんの臓器の提供に同意するのか?」  修司が八環へと向き直る。 「自分はともかく、母はまだ暁子が回復することを信じてますから、反対してます」 「おまえはどうなんだ?」 「正直言って、わかりません」  そう言うと、修司は目を伏《ふ》せた。 「母が言うように、まだ回復する可能性があるなら臓器提供には反対です。ただ、砂川先生が言ったように、暁子の意志を尊重すべきなら、臓器提供を行なってもいいのではないかとも思わなくもないんですよ」  修司の答えに、八環はなにも言うことができなかった。くわえられた煙草がかすかに揺《ゆ》れただけだった。  思い出したように話題を変える。 「さっきの留守録《るすろく》で、妹さんの声で『父さん』って言ってたみたいだが」 「それがよくわからないんですよ。もうひとりの声は砂川先生だけだったですから」 「あの医者が、父親ってことはないんだな」 「ええ。父は十年前に病死してます。心臓を患《わずら》ってたんで……あ、これは嘘《うそ》じゃないですよ」  昨日、友達の妹が心臓病で入院してると偽《いつわ》ったことを思い出し、修司があわてて補足する。 「そうか……苦労してんだな、おまえさんトコ」 「苦労なんて、自覚してませんよ。高校に入ったときから旅と渓谷社でバイトさせてもらってますけど仕事が楽しいくらいですし、就学|援助金《えんじょきん》で大学にもいけましたからね」  ふと、妹のことを思い出す修司。  彼は視線を、また、病院へと戻した。ここからだと、どの部屋が暁子の入院している病室なのかはまるでわからなかったが。  再《ふたた》び、二人の間を沈黙《ちんもく》が支配した。  西から、煌々《こうこう》と前照灯で線路を照らしながら、ゆっくりと普通《ふつう》電車が近づいてくる。  電車は、ポイントによって二人の背中側、四番線に入線する。  普通電車の扉《とびら》が開くが、二人はそれに乗り込まない。  二人が待っているのは三番線を先発する快速電車である。普通電車は、快速電車とそのまえにこの駅を通過する特急電車との待ちあわせのために停車しており、新宿への到着が遅《おそ》くなるためだ。  快速電車が来るまで、まだしばらくの時間が必要だった。 「電車が来るまで、一服《いっぷく》してくる」  そう言うと、八環は立ち上がった。 「はあ、どうぞ」と、少し気の抜けた返事を修司がする。  懐《ふところ》をまさぐり、八環は百円ライターを取り出した。ここで火を点《つ》けて喫煙《きつえん》コーナーに向かうつもりだった。  しかし、ライターはいくら石を擦《こす》ろうが、火が点かない。見ると、ガスが切れている。  渋谷、せめて新宿まで我慢《がまん》しようかとも思うが。  結局、八環は二十分足らずの禁煙《きんえん》を選べなかった。 「こいつを買ってくる」  空《から》になったライターを修司に見せると、小走りで八環は売店へと向かった。  遠ざかる足音。駅の喧騒《けんそう》。乗客の会話——  修司が耳を澄《す》ませる。たくさんの音が飛び込んできた。  駅の北東にある踏切《ふみき》りが、警報を鳴らし始めた。もうすぐ特急が来るのだろう。  そのときだった。  目の前に、キラキラと輝《かがや》くものが見えた。 (雨? いや、金色の……砂? 前にもどこかで……)  そう思ったときだった。  突然《とつぜん》、周囲の音がやんだ。  同時に、視界が閉ざされる。  いや、閉ざされたのではない。自分で瞼《まぶた》を閉じていた。  瞼を開けようとするが開けられない。  そうさせない、理由《わけ》があった。  眠《ねむ》い……  猛烈《もうれつ》な眠気が、修司の感覚を麻痺《まひ》させていた。  彼にとって目を開けることは、苦痛以外のなにものでもなかった。  思考が停止しかける。  いま自分が、起きているのか眠っているのかもわからない。  起きてはいない。でも、眠っているにしては、まだ意識がはっきりとしているように感じる。  背中に、なにかが触《ふ》れた。  ほんの一瞬《いっしゅん》。  強い力で。  そのまま、歩いていく。まどろみから、眠りへと向かうように。  くすくす……  笑い声が聞こえた気がしたが、どうでもいい。  浮遊感《ふゆうかん》があった。  あははは……  また、笑い声がした……が、刹那《せつな》——  修司は強い衝撃《しょうげき》を頭に感じた。  意識が強引にまどろみの世界から引き戻《もど》される。 「痛っ!」  感覚が、一瞬にしてすべて戻ってきた。  もっとも鋭《するど》い感覚が、体中に走る。  目の前に線路があるのが見える。  鉄の匂《にお》いを感じる。  口の中を切ったのか、血の味がする。  轟音《ごうおん》が耳に飛び込んでくる。  とくに、轟音が目の前で大音量で鳴らされたスピーカーのように耳を打った。  目を上げると、迫《せま》り来る特急電車が見えた。  その轟音が、手の触れている線路から振動《しんどう》として体に伝わってくる。  初めて、線路に落ちたことを自覚した。  理由はわからない。考えている暇《ひま》もない。  車輪が線路を蹴《け》る音。  警笛《けいてき》の音。  遠くの踏切《ふみき》りの音。  誰《だれ》かが叫《さけ》ぶ声。  調和の取れぬそれらの音が和音となることはなく、騒音《そうおん》となって聞こえた。  だが、その中に——  あははは……  笑い声だけが、はっきりと聞こえた。  視線を転じ、正面を見た。  迫り来る電車の上方、ひとりの少女が浮《う》かんでいるのが見えた。  少女は笑っていた。  宙《ちゅう》に浮かんだ制服姿の柳瀬暁子が、声を出して笑っていた。  そして、暁子は言った。 「死んじゃえ」  と。  八環甘ホームが騒《さわ》がしくなっていることに気づいた。  駅構内に売店がなかったため、駅員に頼《たの》んで改札《かいさつ》の外にライターを買いにいっていた。ついでに、そこで一服してから戻ろうとしたのだが、ホームの騒々《そうぞう》しさが異常なことに気づき、くわえていた煙草《たばこ》を握《にぎ》りつぶしながら駆《か》け出した。  階段を下りる。その途中《とちゅう》、電車のけたたましい警笛音が聞こえてきた。それが通過しようとしている特急電車のものだというのは、音のしてくる方向からわかる。 (今度は、目の前で犠牲者《ぎせいしゃ》を出してしまうのか)  一連の事件のことを考える。  自分の考えが間違《まちが》いであってほしいと思いながらも、急がなければと足が動く。もっと速く移動することもできたが、人が多く、それもままならない。もっとも、階段まで駆けてきてしまったために、いまさらその手段《しゅだん》を使うのは遅《おそ》かった。  地下通路を走り、ホームへ昇《のぽ》る階段にさしかかった、そのときだ。  通路の奥《おく》、下りホームへ続く階段から、下りてきた人物が見えた。  ほんの一瞬《いっしゅん》の出来事《できごと》ではあったが、八環の目にはその人物の残像が残っていた。 (あの医者……砂川って言ったか)  白衣をスーツに着替《きが》えてはいたが間違いない。特徴的《とくちょうてき》な細い目をした男だった。  考えながらも、階段を駆け昇る。  階段を昇りきったときには、ちょうど特急電車が通過していったところだった。ホーム、そして停車している普通電車の中からも、ざわめきが聞こえてくる。 (誰《だれ》が落ちたんだ)  線路を見る。  しかし、惨事《さんじ》の跡《あと》はそこにはなかった。  辺《あた》りを見る。  多くの人たちの視線が、一点に注《そそ》がれていた。その視線の先を、八環が追う。  視線の先。そこは、線路を挟《はさ》んだ向こう側にある下りホーム。  そこに、驚愕《きょうがく》の表情のまま、右腕を上げて凍《こお》りついている修司の姿が見えた。  修司のすぐ後ろには、長髪《ちょうはつ》で眼鏡《めがね》をかけた青年がいた。彼は修司の右腕を掴《つか》んで、なんとか修司を立たせている。  八環の視線に気づいた青年が、自分の後ろを見るようにと手で合図する。  下りのホームのさらに向こうの道路には、見慣《みな》れた4WDが停まっているのが見えた。         *       *  つつじが丘駅、北側。  レンタルビデオ店の二階にある書店へと至る階段の前に、砂川と <暁子> がいた。  砂川が、その細い目で騒々しい駅のほうを見ている。  彼の傍《かたわ》らにいた <暁子> は、ただ砂川を見つめていた。街灯がはっきりと彼女を照らしており、足もとには影《かげ》もできている。いつものように、彼女|越《ご》しに向こうの景色《けしき》は見えていない。 「父さん……」  まだ駅のほうを見たままの砂川に向かって、 <暁子> が言う。 「あいつを殺しそこねたよ。あいつの行く場所なら、だいたいわかってんだ。だから、もう一度、手伝ってよ。眠らせれば……いや、ちょっと油断《ゆだん》さえさせれば、後はあたしがなんとかするから……」  制服の <少女> が、スーツの男に懇願《こんがん》する。しかし、男は首を縦に振《ふ》らない。 「私は一回で仕留《しと》めろと言ったはずだが」 「今度は失敗しないから。だから、お願い!」 「所在がはっきりわかっている奴《やつ》が優先だ。あの学生は仙川のマンションにいると、さっき病院に戻《もど》っていたときに私に言ってたではないか」  砂川が、つつじが丘からひとつ新宿よりにある駅の名を出した。 「だったら、そちらが先だ。兄の所在はわかってるらしいが、あの学生は、そうそう機会がないかもしれないからな」  有無を言わせぬ砂川の言葉に、 <暁子> は黙《だま》って頷《うなず》いた。そして少しずつ、彼女の姿が薄《うす》れてゆく。 「今度はちゃんと事故に見せかけるんだぞ。うまくできたら、また、おまえの復讐《ふくしゅう》を手伝ってやるからな」  砂川は、すでに <少女> の姿の見えなくなった空間に向かって言った。        *       *    6 家族の軌跡  翌日。  修司が <うさぎの穴> を訪《おとず》れたのは、夕刻に近い時間だった。  昨日のショックもあってか、ゆうべはなかなか眠りにつくことができず、外が白んできた頃《ころ》になってようやく就寝《しゅうしん》することができた。  おかげで、大学は自主休講。  もっとも、今の精神状態では、とても大学になんか行けない。  妖怪《ようかい》——  なるものの存在を、修司は聞いた。  昨日、線路に落ちた修司を助けたのは、 <うさぎの穴> で見かけた長髪の青年——名は加藤《かとう》蔦矢《つたや》、植物の妖怪らしい——だった。彼は、一連の事件の調査で、被害者《ひがいしゃ》が全員、この駅の近くで実施《じっし》されていた献血《けんけつ》に協力していたという情報を掴《つか》んで調べに来たらしい。  蔦矢は線路に落ちた自分を、下りホームから投《な》げ縄《なわ》のようなもので引き上げてくれた。  しかし、自分を引っ張り上げてくれたものは、投げ縄ではなかった。  それは、蔦矢の腕《うで》だった。まさしく、植物の蔓《つる》の腕だった。  彼に抱《だ》き上げられたときに見たのだが、右腕の肘《ひじ》から先が、完全に蔓になっていた。  助けられたこともあり、最初そのことを訊《き》けなかったのだが——逃《に》げるように、つつじが丘駅を後にして——蔦矢の4WDで家に送ってもらったとき、同乗していた八環が説明してくれた。  人の�想《おも》い�が生み出したもの。  された説明のうち、その部分だけは憶《おぼ》えていた。  解さない自分に対して、生命エネルギーがなにかとか色々、八環と蔦矢が説明してくれたのだが、すぐ家についたことと、精神が混乱状態であったためにほとんど頭に入らなかったのだ。  別れ際《ぎわ》、八環は自分も妖怪だと言った。いや、彼だけでなく <うさぎの穴> にいた全員が妖怪なんだと。そして、一連の事件を起こしているのが、おなじ妖怪の仕業《しわざ》であり、妹の暁子も被害者の可能性があるとも。  とりあえず、落ちついたら来るようにと言われてたので、修司は <うさぎの穴> を訪れた。  赤い扉《とびら》を開けると、昨日《きのう》見たのと同じ光景がそこにはあった。  ただ、中に入る者たちに対してだけは、昨日と違《ちが》った見方をしてしまう。  八環たちがいた。  修司には、どう見てもここにいる者たちはただの人間であり、妖怪と呼ばれるものには見えなかった。昨日ここに来たときと同じ顔ぶれに加えて、もうひとり、やぼったいコートを着て、暗い店内にもかかわらずまん丸いサングラスをかけた中年もいた。どこかコミカルな身なりをした彼も、やはり妖怪なのだろうか。  彼らは、入店した修司を一目《いちもく》しただけで、出迎《でむか》えたのは八環だけだった。  修司が八環の隣《となり》のスツールに腰《こし》かける。他にカウンターには誰《だれ》も座《すわ》っていない。 「今日《きょう》はまだ営業時間じゃありません。ですから、アルコールは出せませんよ」  水でいいと八環が言うと、マスターはグラスを二つだし、冷水を注《つ》いだ。  礼を言うと、初老《しょろう》の店主は笑《え》みで応《こた》えた。  店内は今日も変わらず、ピアノの音が響《ひび》いている。奏者はいない。 「俺《おれ》を殺そうとしたのは多分、いや間違《まちが》いなく暁子……の姿をしたものだと思います。あいつが言ったんですよ。�死んじゃえ�って」 「そうか。しかし、その妹さんの姿をしたものが、どうしておまえを殺そうとしたんだろう。ただの偶然《ぐうぜん》か? いや、それ以前に、妹さんの姿をしたものは、一体なんなんだろうか?」 「霊《れい》ってのがあるじゃないですか。死霊《しりょう》じゃなくて、いわゆる生《い》き霊《りょう》ってやつが。眠《ねむ》ったままの暁子の意識が抜《ぬ》げ出た……」  おそるおそる修司が意見を述べると、 「それは違う」  テーブルの椅子《いす》に座っていた青年が、立ち上がってそう言った。昨日もここにいた、体育系の青年だ。 「でも、妖怪……皆さんは人の�想《おも》い�から生まれたんでしょ。だったら、�想い�から生き霊が生まれるんじゃないんですか……」  付け焼き刃《ば》の修司の知識は、それが限界だった。今度は、命の恩人である蔦矢が口を挟《はさ》んだ。 「人の�想い�というのは、君が言うような個人の意識のことじゃない。流《りゅう》はそう言おうとしたんだ」  蔦矢がずいっと、流と呼《よ》んだ青年の前に出る。 「死霊、生き霊のどちらにしろ、恨《うら》みつらみや切望だけで霊が生まれてたら、世の中、霊だらけだ。死にきれないと想いながら死んでいった人なんて、ごまんといるでしょうからね」 「じゃあ、幽霊《ゆうれい》ってのは存在しないんですか」 「それは、俺たちにもわからないよ。霊魂《れいこん》や死後の世界があるのかないのかもわからないんだからね」  蔦矢がさらっと言ってのける。 「ただ、一般に……っていうのも変ですが、残念が霊を生むんじゃなくて、人々が�あの人は死にきれなかっただろうから、化《ば》けて出るかもしれない�と想えば、それが幽霊という名の妖怪になるんですよ。怪談《かいだん》に登場する幽霊の名前を持った妖怪なんか、ほとんど実在しますしね」 「それじゃあ、妹の姿をしたものは……」 「きっと誰かが、妹さんがそうあるように�想った�んでしょうね」 「そのために柳瀬、おまえに来てもらったんだ」  八環が後は任せろと、二人の青年に目配《めくば》せする。立ち上がっていた二人が、こちらを向いたままテーブルの椅子に座った。 「確実なのは、おまえの妹さんの霊……いや、霊じゃないんだったな」  とりあえず <うさぎの穴> では、柳瀬暁子の姿をしたモノを、その霊のような姿から霊体《れいたい》と呼ぶことにした。 「その霊体の妹さんに直接|訊《き》けたらいいんだがな。こういうのもなんだが、その霊体が事件に関わってる……正直言って、犯人なのは間違いないみたいだからな」  八環が修司を見つめる。その言葉の意味は、自身が目撃者《もくげきしゃ》でもあり被害者《ひがいしゃ》でもある修司には、痛いほど理解できた。 「俺には、その暁子[#「暁子」に傍点]がどこにいるのかなんて、わかりませんよ」 「慌《あわ》てるな、柳瀬。俺たちが訊きたいのはそんなことじゃない。姿、声は妹さん、そのものなんだろ? あと、おそらくは筆跡《ひっせき》も」 「姿と声は、たしかに暁子でした。でも、筆跡と言うのは?」 「ドナーカードの署名のことだ。あれは本当に、妹さんが事故る前に書いたものなんだろうか」 「えっ? それは、どういうことですか?」  八環が言おうとしてることはなんとなく想像できたが、修司はあえて訊いた。 「妹さんの姿をした霊体が、なんらかの理由で本当の妹さんをそうしたがっているんじゃないのか?」  その理由について考えるが、まるで心当たりがなかった。 「となると、柳瀬。霊体の姿をした妹さんが、どうして生まれたのかってことになる。それでだ」 「つまり、暁子のことを話せってことですか?」 「ああ。回りくどい言い方はやめよう。事故に遭《あ》った日までのことを教えてほしいんだ」  八環が真摯《しんし》な瞳を向ける。鋭《するど》い目つきは相変わらずだったが、いつもより幾分か穏《おだ》やかなものだと修司には思えた。 「暁子が事故に遭った日……暁子は、家を出たんですよ」  長い間悩んだすえ、修司は意を決したように口を開いた。 「家を出たって、家出か」 「はい。『私は自由になる』って置き手紙をしてです」 「自由ねえ……」  多くの若者が欲するもの。有していると、羨《うらや》まれるよりも疎《うと》まれるもの。手に入れれば持て余してしまうもの。 「なにか、心当たりはあったのか?」 「最初はないと思ってたんですけど。考えてみれば、なかったとも言えません」  修司が考え込む。八環は催促《さいそく》することなく、修司が言葉を紡《つむ》ぐのを待った。 「俺、そしてお袋《ふくろ》も、知らないうちに暁子が不満を募《つの》らせていたことに気づかなかったからかもしれません」 「一緒《いっしょ》に住んでる家族なのにか?」 「家族だからこそ、身近すぎてわからなかったのかもしれません」 「俺には家族はないから、そういう感覚的なところは今イチよくわからないが。そういえば、おまえのところは……」  修司の家が母子家庭であることを思い出す。そのことを八環は口に出さなかったが…… 「昨日も言いましたけど、父は十年前に亡《な》くなってます。母は、俺たち兄妹を女手ひとつで育ててくれました」  修司は、しかし、八環の言葉を察していた。 「俺が高校に入学してからは、学校が終わった後に|旅と渓谷社《タビケイ》でバイトして家計を支《ささ》えてたんですよ。そのとき、暁子も言ったんです。�自分も働きたい�と」 「できた妹さんじゃないか」 「そうですよね。でも……」 「でもってなんだ? なんの不都合《ふつごう》もないじゃないか」 「違《ちが》うんです」  修司がグラスに手を伸《の》ばす。 「母と相談してたんですよ。暁子には辛《つら》い思いをさせないようにしようって。だから、暁子が働きに出るのを反対したんです。まだ、中学に入ったばかりでしたし」 「そんなものか」  八環もグラスに手を伸ばした。 「三年|経《た》って、暁子が高校に入学するときも、暁子は同じことを言ってきたんですよ。でも、このときは前にも増して俺たちは反対したんです」 「高校生なら、バイトしてもなんの問題もないだろ。現《げん》に、おまえがそうだったじゃないか」 「そうですが……」  修司が水に口をつける。 「せっかく、都内でも有数の進学校である帝女の高等部に入学したんですから、俺みたいな三流じゃない、いい大学に入ってほしかったんです。だから、お袋と俺で、なんとか金を工面して、有名進学|塾《じゅく》に行かせたんです」 「金、かなり要《い》ったんじゃないか?」 「でも、暁子は帝女に、授業料一部免除の特待生として入学しましたから。塾の受講料分は取り戻《もど》しましたよ。身内のことをこういうのもなんですが、もともと頭のいい奴《やつ》で努力家でしたから。入学してからずっと、学内で優秀な成績だったと聞いてましたし」 「聞いてました? 柳瀬が聞いたんじゃないのか?」 「母から聞いてたんです。バイトが忙しかったもんで……でも、いま思うと、その頃から暁子とはあまり会話しなくなった気がします。だから、わからなかったんです。あいつが不満を募らせてたことに。それを一度、あいつは爆発させたんですよ」  いったん言葉を切り、修司はまた、グラスに口をつけた。八環も修司に倣《なら》う。 「あいつのいた進学クラスは、大学受験予備校の特別進学コースみたいなところで、級友との付き合いもなく息の詰《つ》まりそうなところだったそうです」 「そのことも、母親から聞いたのか?」 「いいえ。これは暁子の口からです。もっとも、そのときは怒声《どせい》でしたけど……」 「しかし、クラスのことを家の者に愚痴《ぐち》ってもしかたないだろうに」 「違うんですよ。あのとき、暁子はかなり頭にきてたのか、とんでもないことを言ったんです」  修司はまだ手にしていたグラスの中身を飲《の》み干《ほ》した。コトンと音を立てて、グラスをカウンターの上に置く。マスターはなにも言わずに、空《から》になったグラスに冷水のおかわりを入れた。 「いま勉強しておけば、将来、なにをするにしても自身に有益な見返りがあると母が言ったのを、母が自分に養わせて楽するためにそうさせてると、極端《きょくたん》なことを言ったんですよ」 「そいつは……本当に極端な意見だな。当たり前とも思えるんだが」 「きっと、あいつ疲《つか》れてたんだと思います。たしかに、俺の仕事なんか趣味《しゅみ》みたいなもんですし……やっぱあれは、失言だったな……」 「失言?」 「はい。つい言っちゃったんですよ。誰のために、俺とお袋が働いているんだって」 「たしかに失言だ。だって、妹さんは自分も働きに出たいって言ってたんだろ」 「まったく、そのとおりです。暁子はあれから、口をきいてくれませんでしたから……それから、一週間後です。あの事故があったのは。二週間の間、暁子は相当|悩《なや》んでいたんだと思います。なんせ『自由になる』なんて置き手紙ですからね」  冷めた笑《え》みが浮《う》かぶ。修司は自嘲《じちょう》するように笑っていた。 「妹さんに良かれと思っていたことが、逆に負担を強《し》いてたんだな」 「おそらく、そうでしょう……」 「ちょっと、いいですか」  そこへ、大樹が割って入った。  彼はノートパソコソをカウンターに持ってくると、八環とで修司を挟《はさ》むように座《すわ》った。  マウスを操作して、すでに呼出してあったデータを開く。パソコンの側面にはPHSが接続されてあった。画面を見ながら、大樹が言う。 「妹さんが事故にあったとき、目撃者《もくげきしゃ》の証言では、自分から電車に向かって行ったと。で、頭を打っていまのような状態に……」 「まさか、自殺まで考えてたなんて、思いもしなかったんで」  修司の顔が翳《かげ》る。 「知ってますか?」  突然《とつぜん》、大樹が訊《たず》ねた。 「本当なら妹さん。線路に落ちてたみたいですよ。でも、そうならないようにした人がいるんです」 「えっ!?」  修司の目が丸くなる。大樹は少しもったいをつけるように言った。 「幸《さいわ》い、近くにいた人が、とっさに腕《うで》を取って引っ張ったんですって」  修司が八環の顔を見る。二日前に、八環は同じようなことをして御徒町駅でひとりの女子高生を救ったが、他の場所で同じようなことはしていないと言うように、首を振《ふ》った。 「だから、暁子さんは死なずにすんだんですよ。ただ、頭を打ったせいであの状態ですから、なんとも言えないんですけど……」  言葉を淀《よど》ませつつも、大樹は的確に意見を述べた。そして、また別のデータを開き始める。 「まだ、なにかあるのか?」  八環の質問を待っていたかのように、大樹は言った。 「実はですね。その暁子さんを助けたって人物が、彼女の入院している病院の関係者だったんですよ」 「誰《だれ》かわかるか」 「残念ながら……でも、その人物は自分が三陸会病院の医者だと言った後に、命に別状ないからすぐ近くの病院に運べと言ったらしいんです。結局、その人物の勤める病院だったんですけどね」 「職務|怠慢《たいまん》なんじゃないのか、その医者。怪我人《けがにん》を目の前にして」 「ですね。言うことだけ言うと、次の電車に飛び乗ってったそうですから。公共交通機関は、人身事故があっても長時間、運転を止められませんからね」  大樹の話を聞いて、八環はふと、ある人物の顔を思い浮かべた。  昨日、修司が線路に落ちたときに、連絡通路にいた男——砂川の顔を。 「なにか特徴《とくちょう》などはわかってないのか?」 「ないみたいです。特徴と言えば、サングラスをかけていたとしか記録にはないみたいですね」  なんのデータを見ているのか。大樹の手は忙《せわ》しなく動いていた。 「それも特徴だが……」  特徴を隠《かく》すための特徴ならと、八環の思考が走る。もし、自身の細い目を隠すのにサングラスをかけていたのならば、砂川の可能性も大いにある。 「ちなみに、病院側でも誰が駅で暁子さんを診《み》たのか調査したみたいなんですけど、わからなかったみたいですね」 (正体を明かせない理由……なにかあるのか)  八環はしばらく考えるが、結論はでなかった。そのため、話を本題に戻《もど》す。 「事故の後、お袋《ふくろ》さんは?」 「しばらく大変でしたよ。暁子が生きていたのは救いでしたけど、あの状態ですから。今でも、回復するときを信じて、毎日病院には顔を出してますし」 「親として、当然の態度だな」 「気持ちは、俺も同じですよ」 「そうか……じゃあ、確定したかな」 「なにが、ですか?」  八環の言葉に、修司が首を傾《かし》げた。 「あの霊体《れいたい》の妹さんを生んだのは、おまえとお袋さんってことだ」 「俺とお袋の�想《おも》い�ってやつですか」  たしかに自分、とくに母が、妹が元気な姿を見せるようにと強く願っているのは、修司にも理解できた。しかし、それ以上に疑問に思うこともあった。 「でも、あの暁子は……」 「そう、その点がわからないんだ。どうしてあんな危険な妖怪《ようかい》であるのかだ」  八環は修司の言うことを理解していた。  そして、暁子の回復を切に願っている二人の意志だけなら、その強い想いの力——生命エネルギー——が、回復の方向へ働いてもおかしくないのではと、付け加えた。いわゆる、祈《いの》りが通じて奇跡《きせき》の生還《せいかん》を果たすってやつだとも。 「こうは考えられませんか」  大樹が割り込んでくる。 「元気な姿になることを願った家族の想いと、本人の復讐心《ふくしゅうしん》とが融合《ゆうごう》してしまって、生まれたモノと言うのは?」 「否定はできないですね」  後ろから、蔦矢の声が聞こえてきた。さらに別の声、流が相槌《あいづち》を打つ。 「植物状態ってのは、意識はないけど死んでるわけじゃないんだろ? だったら、無意識な部分がなんらかの形で作用することってのもあるんじゃないのか? 話を聞いてると妹さん、かなりストレスを溜《た》めてたみたいだしな」 「深層的な部分にか……そんなところにある復讐心だったら、かなり強迫《きょうはく》めいたものになるだろうな」  にわかに、 <うさぎの穴> が討論の場となった。  五分ほど侃々諾々《かんかんがくがく》が続いたが、結局はさっき出た修司とその母親、そこに今も眠《ねむ》り続ける暁子の意識が、なんらかの形で歪《ゆが》んで作用したものではないかという結論に達した。  ただ、それならばなぜ、修司や母親が最初に狙《ねら》われなかったのかという疑問が残っていたのだが。  八環が代表して、そのことを修司に言った。 「ある意味、おまえの言った生《い》き霊《りょう》ってのは正しかったのかもしれんな。わかっていることは、人をまどろませて背中を押《お》し、事故死を装《よそお》うことと、幽体《ゆうたい》の体ってことくらいだけどな」  一段落して落ちついたのか、八環が煙草《たばこ》に火を点《つ》ける。修司はしばらく立ち上る紫煙《しえん》を眺《なが》めていた。 「そういえば、蔦矢」  煙《けむり》を吐《は》き出しながら、八環が長身の青年を呼んだ。 「昨日、事件の被害者《ひがいしゃ》は共通点として献血《けんけつ》していたって言ってたな」 「ええ。他のネットワークに被害者のなんらかの共通点について調べてもらってたんですよ。そしたら全員が、つつじが丘駅の近くに駐車《ちゅうしゃ》した献血カーで献血したというデータが出てきて……それで昨日はあそこにいたんですよ。ただ、変なんですよ」 「なにがだ」 「その駅の周辺で、これまで献血カーで献血が行なわれたことがないんです。しかも、それ以後、今日まで一度も行なわれていません」 「それって、いつの話だ」 「献血カーがあの駅に行ったのは、四、いやもう五ヵ月くらい前になりますかね」 「うーん……」  奇妙《きみょう》な共通点だった。しかし、事件に繋《つな》がる唯一《ゆいいつ》の手がかりであるようにも思えた。 「ちょっと、八環さん。これ……」  大樹が、パソコンのモニターを八環へと向けた。 「インターネットで今日の新聞を調べてたら、事件に関係ありそうなものがあったんで。ちょうどいま、NHKのニュースで同じ報道を……」  パソコンにはPHSにかわり、今度はテレビチューナーらしきものがつけられてあった。スピーカーの音量を上げ、周りにいる者たちにも聞こえるようにする。室内であるせいか、画質は悪い。蔦矢などは、店内にあった小型テレビのほうへと席を移した。 『……マンション九階のベランダから、城南大学の学生、片江光治さんが転落し、死亡しました。片江さんは、布団《ふとん》と一緒《いっしょ》に落ちたことから、警察では事故として調査をしています』  女性キャスターから現場の映像へと両面が切り替《か》わった。  このときすでに、八環と修司は向きあっていた。 「八環さん……この片江って人、あのときたしか……」 「ああ、間違《まちが》いない。砂川って野郎《やろう》と霊体の妹さんが、電話の中で話していた学生のことだ。あの医者、やっぱり事件に絡《から》んでやがったのか」  周りにいた者たちが、どういうことだと八環と修司に説明を求めた。しかし、つけっ放しにされていたテレビが驚《おどろ》くべきニュースを報じていた。 『調布市にある三陸会病院から、今日、脳死|患者《かんじゃ》から臓器が摘出《てきしゅつ》されることが決まりました。今回摘出されるのは、心臓のみでありますが、脳死による……』 「三陸会病院でだって? まさか……」  修司がひとつの不安を口に出そうとしたものの、言葉にならなかった。目はモニターから離《はな》すことができない。耳も、報じられる一語一語聞き漏《も》らさぬようにと傾けられた。  画面が、臓器摘出の執刀医《しっとうい》のコメントに変わった。おそらく病院内に設けられた記者会見の席、その真ん中にいたのは—— 「砂川先生……」  執刀医の名を告げたのは修司だった。 『今回の移植は、臓器提供意思表示カードによるもので、家族との同意に達したため実現しました。若き提供者の善意と家族の決断に、心からの感謝の意を示し……』  砂川のコメントは続いた。 「誰《だれ》か、こういう情報に詳《くわ》しいネットワークに連絡《れんらく》を取ってくれ! 提供者の名前を知りたい」  八環が叫《さけ》ぶ。それに応《こた》え、マスターが店の電話《でんわ》の受話器を取った。  修司も携帯《けいたい》電話を取り、短縮《たんしゅく》ボタンで電話をかけた。バイト先の次によく電話をするところへだ。  呼出《よびだ》し音《おん》が聞こえてくる。  プルルル……プルルル……  しかし、ただ呼出し音が鳴り続けただけだった。それが三十回に達したとき、修司は携帯電話を切った。 「どこにかけたんだ」  八環が訊《たず》ねる。 「自宅です。この時間なら母がいるはずなんですが、連絡がつかないんです」  修司がそう答えたとき、マスターが手元にあったメモを見ながら言った。彼のほうの受話器は、すでに電話機に置かれてある。 「民放のニュース屋が知っておった」 「誰ですか!」  叫んだのは修司だった。彼は臓器提供者など誰でもいいと思っていた。ただひとりの人物を除いて。 「柳瀬暁子さん、だそうです」  まるで自分の責任であるかのように、悲痛な面持《おもも》ちでマスターは言った。彼は続いて、臓器を提供される人物が、京都の病院に入院中である、松前正三郎なる人物だと告げた。 「それってなんだか、おかしくありませんか」  マスターの言葉を受けて、大樹が言う。 「だって、よく考えてください。どうして、植物状態の暁子さんから臓器を取り出すんです? 植物状態と言うのは脳死と違って、自力呼吸もできるんですよ。それに、もうひとつ。松前正三郎って財界の大物ですけど、たしかもう七十|歳《さい》を越《こ》えた老人ですよ。そんな高齢者《こうれいしゃ》に、普通《ふつう》、臓器を移植しますか」 「簡単なことだ」  そう言ったのは八環だった。 「最初の答えは、砂川って医者が、柳瀬の妹を脳死ってことにしたんだ」 「でも、それって……」 「そうだ。生きている人間から心臓を取るんだ。殺人と言ってもいい代物《しろもの》だな」 「しかし、脳死判定には、二人以上の医師に脳死と認定される必要がありますよ。それも臓器移植ネットワークから派遣《はけん》された……」 「砂川が力を持っていたら、ってのはどうだ?」 「力?」 「俺たちと同じような力だよ。人間を一瞬《いっしゅん》でも操《あやつ》れればなんでもいい。そんな力が、だ。もっとも、人間を勤かすのにもっとも有効な手段はこいつかもしれないがな」  そう言うと、八環が親指と人差し指の先を合わせて円を作った。 「お金……もうひとつの答えってのは、それですね」 「たぶんな。危篤《きとく》状態の財界の大物を、移植してでも延命《えんめい》の望みにかけねばならない連中もいるのだろう。いや、ひょっとすると、本人の生に対する執着《しゅうちゃく》からかもしれないが……どちらでもいいことだがな」  八環の言葉が推測の域を出ないものであるにせよ、暁子の命が断たれようとしていることは、マスターの情報が誤りでないかぎり間違いないのだ。しかし、残念ながら、そんな都合のいい間違いが起こっているとは到底《とうてい》思えなかった。  ニュースの中で、砂川は言っていた。 『若き提供者』と。  砂川が執刀《しっとう》することでさえ、暁子に手が回ったという考えが拭《ぬぐ》えないのに、彼は提供者が若年者であることを告げていたからだ。 「俺、行きます!」  修司が飛びだそうとする。その腕《うで》を八環が掴《つか》んだ。 「止めないでください! 暁子が、殺される!」 「誰も止めるとは言ってない!」  言いながら、八環は上着を脱《ぬ》ぎ捨てた。 「俺が先に行く。おまえは後からあいつらと一緒《いっしょ》に来い!」  八環の姿が変じた。  背にコブが生じたかと思うと、黒い羽毛《うもう》に覆《おお》われた翼《つばさ》が飛び出した。  腕が痛い。見ると、手も猛禽類《もうきんるい》の足を思わせる鋭利《えいり》な鉤爪《かぎづめ》に変わっていた。  弾《はじ》くように腕を振《ふ》りほどかれる。その姿を、言葉では説明されたとはいえ、現実に見せられたその特異な姿に圧倒《あっとう》されていた。 「八環さん。ここから飛んで行くにはまだ目立つ時間です。それに、病院なんて、簡単に入れるところじゃありませんよ」  ドアの近くにあったテーブルで、皿に盛った土を食べていた[#「土を食べていた」に傍点]丸いサングラスの男が、スプーンを持つ手を止めて忠告する。その言葉に従《したが》うように、八環が立ち止まった。 「俺ならば、流ほど目立たないさ」  金色の鱗《うろこ》を持った龍《りゅう》——それが流の、もうひとつの姿。 「病院のほうは……教授。すまないが、あんたに手伝ってもらうぞ」 「へっ? 私が!?」  どのように、と訊ねる暇《ひま》は、教授と呼ばれた男に与えられなかった。教授のコートの首根っこを掴むと、引きずるようにドアを飛び出していった。 「ちょ、ちょっと八環さん! 霧香さんに連絡して、砂川って奴《やつ》の正体を……ああ、仕方ないなあ!」  蔦矢の声は、八環には届かなかった。先に店を出て行った八環を、愚痴《ぐち》を零《こぼ》しながらも蔦矢は修司を連れて追っていった。    7 睡魔        *       * 「どうして、そいつがここにいるのよ!」  白い病室に窓から入ってきた <暁子> は、開口一番、砂川を怒鳴りつけるように言った。 「たった今、ご承諾をいただいたところだ。もう後戻《あともど》りはできないぞ」  砂川は、動じることなく、宙に浮《う》かんでいる <暁子> に向かって答えた。そして、視線を下ろし、今度は眠《ねむ》っている暁子を見る。必要がないにもかかわらず、人工|呼吸器《こきゅうき》が付けられている。そうされているのは、彼女は公式には脳死と言うことになっているためだ。人工呼吸器なしには生きていられない状態なのである。 「重荷になるだけのそんな体なんか、あたしは要《い》らないよ。そいつ……いや、馬鹿《ばか》な家族が、いつか回復するって信じてたみたいだけどね」  ベッドに眠っている暁子を見ていた <暁子> が、視線を転じた。  そこには、椅子《いす》に腰《こし》かけたまま眠る女性がいた。額と目尻《めじり》には、幾本かの皺《しわ》こそ走っているものの、その面影《おもかげ》はどこか、暁子に似ていた。 「気が変わられると困るので、今は眠ってもらっている」  砂川が <暁子> に、右手を開いて見せる。  すると、金粉のようなものが宙を舞った。 <暁子> は、それに一瞥《いちべつ》をくれただけで、視線を椅子の上で眠っている女性に戻した。 「あたしを檻《おり》の中で飼《か》ってたつもりだったみたいだけど。それももう、できないね。だって、心臓を売っちゃうんだもん。汚《きたな》い血を送り出してた心臓を欲しがる爺《じい》さんがいるなんて、世の中ってホントに広いもんだわ。まあ、これこそ究極の援助《えんじょ》交際って言っていいかもね」 <暁子> の目が、今度は眠り続ける暁子へと向けられた。いまの言葉が強がりでないことを示すように、ふんっと鼻も引っかけない素振《そぶ》りをする。 「サヨナラ!」  椅子に座った女性を、もう一度、一瞥《いちべつ》すると <暁子> は姿を消した。 「ご理解いただいて、ありがとうございます」  部屋に残された砂川は、椅子に座ったまま眠る女性に向かって告げた。 「娘《むすめ》さんの体。お役に立ててみせますよ、お母さん」        *       *  着替《きが》えと消毒を終えた砂川は、手術室へと向かっていた。  隔《へだ》てているのは、殺菌《さっきん》処理のされた一枚の扉《とびら》だけ。  そこでは、準備を終えたスタッフが消影《しょうえい》ライトの下、手術台を取り囲むように待機し、その上に横たわる暁子の体が開腹されるときを待っている——はずだ。 「表舞台《おもてぶたい》でいよいよ私の腕《うで》が試されるか……」  栄光へと続くものだと信じて、砂川は正面にある扉に手を伸《の》ばした。  スタッフが一礼し、自分を迎《むか》え入れる……はずだった。  しかし、そこには誰《だれ》もいなかった。  いや、暁子の体が消影ライトの下、手術台の上に横たわっているのは、予想の範疇《はんちゅう》であった。  ただ、それだけであったが。 「これは、一体どういうことだ」  怒声《どせい》が手術室内に響《ひび》く。  スタッフの怠慢《たいまん》とは考えられない。みんな、自分が選《よ》りすぐった都合《つごう》のいい……もとい、優秀《ゆうしゅう》なスタッフたちだった。  ゆっくりと中へと入って行く。  そこに来て初めて、砂川は優秀なスタッフがちゃんと準備を終えていたことに気づいた。ただ、彼らは全員、気絶していた。五人の男女が、床《ゆか》に伏《ふ》せている。 「どうしたというのだ!」  その問いに答える者はいなかった……と思ったのだが、人工心肺器の向こうから声が聞こえてきた。 「見てのとおりだ。時間がなかったんで、こんな格好で失礼するよ、砂川先生」  ひとりの男が砂川の前に姿を見せた。  八環だ。  彼は上半身|裸《はだか》のままだった。 「私は、屋上の扉の鍵《かぎ》を、中から開けるためだけに連れてこられたつもりだったんですが……まさか、ちょっと顔を出しちゃうだけで、皆さん気絶してしまうとは……天井《てんじょう》からモグラってのも変ですかね?」  八環の後ろから、教授も姿を現わした。  土流精《どりゅうせい》——モグラの妖怪である彼は、あらゆる物質を透過《とうか》する力を持っている。それを使って、屋上から八環が侵入するのを助けたのだ。ついで、手術室を探《さが》し出したとき、本来の——人の大きさのあるサングラスをかけた巨大《きょだい》モグラの——姿で顔を出したところ、中で準備作業をしていた者たちが気を失ってしまった。  教授は、煌々《こうこう》と照らされた手術室が眩《まぶ》しいのか、サングラスをかけているにもかかわらず、帽子《ぼうし》まで目深《まぶか》に被《かぶ》っている。 「貴様《きさま》ら……何者だ」  砂川の言葉に答えることなく、二人は少しずつ距離《きょり》を縮《ちぢ》めていった。逆に、八環のほうから質問する。 「そいつはこちらの台詞《せりふ》だ、あんたとあんたが利用している娘の霊体《れいたい》のことを話してほしいんだが……」  そこで言葉を切った。砂川が不審《ふしん》な動きをしたからだ。 「喰《く》らえ!」  どこから収り出したのか、砂川はいつしか小袋《こぶくろ》を手にしていた。そこに手を入れると、中にあった物を、二人に目掛《めが》けて投げつけた。  二人が身構える。  だが、飛んできたのは粉のようなものだった。金色に輝《かがや》きながら、二人に降りそそぐ。 「これは……砂?」  そこで教授の思考が中断する。  目に入った砂は、痛みこそなかったが、変わりに強烈《きょうれつ》な眠気《ねむけ》を生じさせた。  大量の砂を被《かぶ》った教授は、激《はげ》しい眠気に身を任せるままに、床に突《つ》っ伏《ぷ》してしまった。そしてそのまま、寝息《ねいき》をあげる。 「おいっ! こんなところで寝ないでくれ!」  自身にも襲《おそ》いかかってくる猛烈《もうれっ》な眠気に耐《た》えながら、八環は教授の体を蹴《け》った。  遠慮《えんりょ》したつもりはなかったが、教授はまったく起きる気配を見せなかった。 「なるほど、砂を投じて眠りをもたらす妖術か……しかし、婆《ばあ》さんの姿をしてない�砂かけ�は初めてだ。なんにせよ、これで事件のつじつまが合う。被害者《ひがいしゃ》がふらふらした足取りになるのは、みんなこいつのせいなんだな。あとは、姿の見えない殺人者を使って……」 「黙《だま》れ!」  砂川が叫ぶ。 「いまさら、そんなことを知ってなんになる。おまえも、そこで眠ってる奴と同じになるというのに。どうせ、貴様の臓器なんぞ移植に使えんから、標本にでもしてやろう。医学的には、なんの役にも立ちそうにないがな」  砂川が小袋に手を入れる。もう一度、砂をかけるべく、一握《ひとにぎ》りの砂を取り出した。 「遅い!」  八環の手が風を生んだ。  生じた風は、突風《とっぷう》となり、砂川の胸を叩《たた》く。  思わぬ衝撃《しょうげき》に砂川は、手にしていた砂を自分で被るはめになった。 「さすがに、自分の砂で眠ることはないようだな。おかげで痛い目に遭《あ》うはめになるぞ。それとも、大人《おとな》しくしてくれるか」  八環が詰《つ》め寄ろうとした、そのとき—— 「大人しくするのはあんただ。それ以上動けば、こいつの命はないよ」  声は、手術台のほうから聞こえた。  見ると、そこには眠っている暁子と同じ姿をしたもうひとりの <暁子> がいた。 「ほんとうにそっくりだな。いや、同じ……同一人物だな」  素直《すなお》な感想を八環は口にした。  二人の姿は、服装《ふくそう》の他は寸分変わらないように思えた。ただ、制服姿の <暁子> の手には、鈍《にぶ》い光を反射《かえ》すメスが握《にぎ》られており、その刃《は》は眠っている自分と同じ姿をしたものの喉元《のどもと》に突《つ》き付けられていた。物体を持つためにか、彼女の体は霊体ではなく、実体が有るように見える。 「おまえさん、本体を殺すのか」  立ち止まった八環が、刺《さ》すような視線を向けながら、 <暁子> に言った。 「こいつはあたしとはなんの関係もない。死んじまって家族に臓器をバラ売りされる、ただの商品だ」  動じることなく、 <暁子> は答えた。 「おまえの家族は、臓器の提供に反対していたぞ」 「そんな嘘《うそ》、信じるものか!」 「嘘じゃない」 「嘘に決まってる!」 「そう、臓器の提供は、ちゃんと家族の同意をもらってるんだ」  と、二人の押《お》し問答に、砂川が割り込んできた。 「これが同意書だ」  小袋の中から一枚の紙を取り出した。四つに折《お》り畳《たた》まれていた紙を広げ、八環に突きつける。  八環の鋭敏《えいびん》な視覚が、小さな文字の並《なら》ぶ書類を捉《と》らえる。  そこには確かに、柳瀬暁子の臓器の提供に同意すると記《しる》されてあった。修司、そして悦子の母親である柳瀬|公子《きみこ》の署名があり、拇印《ぼいん》まで押されている。 「サインなど、果たして本当に本人がしたものかどうか。まったく怪《あや》しいもんだ」 「拇印は間違いなく、柳瀬公子のものだ。なんにせよ、これだけの書類が揃《そろ》えば、私の行為《こうい》は公に認められるのだよ」 「でも、不当な手段《しゅだん》によってサインを強要した場合には、契約は成立しない」  扉《とびら》の向こうから、声が聞こえた。  三人の視線が扉に集中したとき、それは勢いよく開け放たれた。 「早かったな。突然《とつぜん》のワンマンショーに疲れてたところだったから、ちょうどよかった」 「それはそれは……」  開け放たれた扉の向こうに、蔦矢の姿が見えた。そして、その後ろには修司もいた。 「砂かけ。その力で眠りをもたらして、柳瀬君のお母さんにサインさせたんですね?」 「証拠《しょうこ》はあるのか」  砂川が開き直ったが、虚勢《きょせい》にもならなかった。 「先に、昏睡《こんすい》状態の柳瀬公子さんを見てきたんだ。こちらには、どんな妖術を使ったのか、わかる人がいるからね」  霧香が来たことを遠回しに蔦矢は八環に告げた。鏡の妖怪、雲外鏡《うんがいきょう》である彼女は、あらゆる事象を感知する力に長《た》けており、妖術を見破ることも、その例外ではない。 「もっとも、それ以前にあなたは、自分の術をここですでに披露《ひろう》してるじゃないか」  教授を見ながら蔦矢は言った。その顔は、少し呆《あき》れているように見えた。砂川か教授、どちらに対するものかはわからない。いや、その両方に対してのものなのかもしれない。 「それは、私たちにだけ通じることだ。人間に妖術《ちから》のことなど、わかるものか」 「いや、わかる」  答えたのは、修司だった。 「お袋《ふくろ》の指には、朱肉《しゅにく》がついたままだった。普通、汚《よご》れたままにしておかないだろ」  砂川は言葉を失った。  修司はさらに、手にメスを握りしめたままの <暁子> に向かって言った。 「暁子! おまえを眠ったままに、動けなくしたのは、この男なんだぞ。そんな奴に手を貸すな!」 「違《ちが》う。この人は、あたしを助けてくれたんだ」 「だから、それはこの男が仕組んだことなんだよ!」 「嘘を言うな!」 「嘘じゃない。今日《きょう》まで、おまえがやってきたことを、砂川もやってたんだ。思い出してみろ! 自分が電車で頭を打つまえに、眠気《ねむけ》みたいなものを感じなかったのか!? 暁子、おまえは利用されてるんだよ!」 「あたしは、ここに眠っている奴のことなんか知らない! あたしは利用なんかされてない! 自分の意志で、父さんに協力してるんだ! それに……」 <暁子> が手にしていたメスを、修司に投げつけた。すんでのところで、蔦矢の蔓《つる》の腕《うで》がそれを払《はら》い落とす。 「あたしのことを、暁子と呼《よ》ぶな!」  叫《さけ》ぶ <暁子> のもとへ、八環が飛びかかろうともしたが、彼女の手には再《ふたた》びメスが握られ、暁子の喉元《のどもと》に突き付けられていた。 「暁子、おまえ……それに父さんって……」  前にも聞いてはいたが、実際に目の前で、砂川のことを父と呼んだ <暁子> に、修司は少なからぬ衝撃《しょうげき》を受けた。そして、続く <暁子> の言葉は、修司にとどめを刺《さ》した。 「父さんは、あんたたち柳瀬の人間に復讐《ふくしゅう》するのを手伝ってくれると約束《やくそく》してくれたんだ。父さんは、あたしの唯一《ゆいいつ》の家族よ」 「そんな……」  修司は続く言葉をなくしていた。妹の姿をしたものは人間ではなく、想《おも》いが生み出したものであると言われていたが、修司に彼女の言葉は、妹が言ったものとしか思えぬ響《ひび》きを持っていた。感情を爆発させ、激昂《げっこう》に任せて言葉をまくしたてたあのときの妹の姿が重なって見えた。 「わかった……そうか、わかったよ」  修司が言った。気の抜《ぬ》けた、弱々しい声で。 「おまえがそんなことを言ってどうする!」  八環が修司を叱咤《しった》する声が聞こえた。膠着《こうちゃく》、いや砂川たちが有利な状態を打破するためには、修司が <暁子> に対してなんらかの行動をとることだと八環は考えていた。さっき、 <暁子> が修司にメスを投げつけたようすを見て、感じたのだ。 <暁子> はやはり、家族の想いから生まれた可能性があり、そこに隙《すき》を作れるきっかけがあるのではないかと。そのためにも、修司にはできるだけ暁子の注意を引きつけて欲しいと考えていたのだが。  今の修司は、とても八環の期待に応《こた》えられる状態ではなかった。両肩を落とし、その顔に諦《あきら》めの文字が浮かんでいる。  修司は、大きく落胆していた。  その理由は二つあった。  ひとつは——彼が生き霊と信じて疑わない—— <暁子> に、家族は砂川だけだと、自分と母に決別を宣言されたこと。もうひとつは、砂川の悪事——それが、殺人であることを理解したうえで、 <暁子> が片棒を担《かつ》いでいたこと。 「修司君! 君が弱気で……」  今度は蔦矢が自分に向かってなにかを言ってきたが、修司にはなにも聞き取ることができなかった。 <暁子> に向かって修司は、ただ一言だけ、言った。 「わかった。だから、暁子……自分自身を殺さないでくれ」 「えっ!?」 <暁子> が動じた。八環には、そのように見えた。  その僅《わず》かな隙を逃《のが》すことなく、八環は <暁子> に向かって風を叩《たた》きつけた。  狭《せま》い室内に生じた風は、違《たが》わず <暁子> の手を捕《とら》えた。  カランッ——  手から離《はな》れたメスが、床《ゆか》で跳《は》ねる。  同時に、砂川も動いていた。  いまなら風を操《あやつ》る奴《やつ》の攻撃はないと踏《ふ》み、小袋《こぶくろ》に右手を伸ばしたのだが、その手が袋の外に強引に引っ張り出された。  いつの間《ま》にか、鞭《むち》のようなものが絡《から》みついており引っ張られている。  鞭は、蔦矢が伸《の》ばした蔓《つる》の腕《うで》だった。砂川が歯がみする。彼の見た蔦矢の表情は、自分の行動など最初からお見通しだと言うように、不敵に見えたからだった。 「ここでも役に立たなかったか」  砂川の言葉は、 <暁子> に向かって発せられた。 「これならば、おまえを使わないほうがよっぽど効率が良かったくらいだ」 「えっ、なに? なんなの、父さん……」 <暁子> は最初、それが自分に向けられて言われていることに気づかなかった。  見ると、砂川の目が大きく見開かれている。  叱《しか》られることはあっても、ここまで怒《いか》りを露《あらわ》にした砂川の顔を見るのは初めてだった。 「結局、誰《だれ》も事故にみせかけて脳死状態にすることができなかったではないか! 死んだら死んだで、商品価値のない殺し方しかできない……」 「なにを言ってるの、父さん……」 <暁子> があきらかに動揺《どうよう》していた。続けて攻撃《こうげき》しようとしていた八環の手が止まる。しかし、寝台《しんだい》の上の暁子に危害を加えようとするなら、いつでも攻撃できる体勢でだ。  砂川は怒りが収まらないのか、まだ、 <暁子> への罵声《ばせい》をやめない。その様子に、八環たちのほうが、砂川に対して怪訝《けげん》な顔を向けてしまっていた。 「おまえが役に立ったのは、松前先生と血液型、リンパ球グロブリンの型があったことくらいだ。だがもう、そんなことなどなんの意味もなさない。裏社会で移植を続けてきた私が、晴れて表舞台に立つというこの日を……この役立たずが!」  砂川の <暁子> に対する不満は、さらに続いた。その間—— 「嘘でしょ、父さん……」  と、言ったのを最後に、 <暁子> はなにも言わなくなっていた。もはや、砂川になにを言われても、表情さえも崩《くず》さない。すました顔のまま、表情も体も固まっている。 「なにが父さんだ。ちょっと優しい面《つら》を見せたら、簡単に尻尾を振りやがって! 案《あん》の定《じょう》、父と呼ばせたら、バカ正直にも本気でそう思いやがるし。所詮《しょせん》おまえなぞ、家族に復讐《ふくしゅう》だと言いながらも、本当は家族に……ぶっ」  そこで砂川の言葉が途切《とぎ》れた。  機関銃《きかんじゅう》のようにまくしたてたせいか、砂川は修司が駆《か》け寄ってきたことに気づかなかった。  だから、修司の勢いの乗ったパンチを、そのまま頬《ほお》に喰《く》らうはめになった。体は倒《たお》れようとするものの、まだ蔦矢の蔓が腕に絡みついていたので、それも許されなかった。 「これ以上、暁子を、妹をおまえなんかに利用させない」  そう言うと、修司はもう一度、砂川を殴《なぐ》った。  砂川は、今度も倒れることなく、目の前の青年に告げた。 「私の協力の申し出を、こいつは断わろうとはしなかった。最初から、おまえに対する復讐ばかりを考えてたんだぞ。そんな奴の肩《かた》を持つのか。おまえもとんでもないバカ兄貴《あにき》だな。いや、それ以前に、あいつを妹だと思っているとは……まったく、とんだ大馬鹿野郎《おおばかやろう》だ」  口数の減らない砂川に、修司はもう一発、拳《こぶし》を叩き込んだ。そして、 <暁子> に向き直った。 「こいつの言ったこと、本当なのか」 「あたしは束縛《そくばく》されてきたから」  修司の言葉に、 <暁子> は明確な答えをしなかった。それを修司は、すぐさま否定する。 「おまえに窮屈《きゅうくつ》な思いをさせるつもりは決してなかった。でも、実際には、お袋や俺が良かれと思ったことがプレッシャーになってたんだろ」 「いまさらそんな言《い》い訳《わけ》をされても困る。あたしは、復讐するために生まれてきたんだから」  今度は、真《ま》っ向《こう》から否定するが、 <暁子> の言葉にさっきまでの勢いはなかった。  そんな <暁子> の前へと、修司が近づいてゆく。  数歩も行くと、 <暁子> は後ずさる素振《そぶ》りを見せた。そこで修司は、立ち止まって言った。 「すまない」  体をくの字に曲げ、修司は心からそう言った。 「すまない、暁子[#「暁子」に傍点]。だから、早くもとの暁子の体に戻ってくれ」  彼女を、まだ生き霊と信じてるが故《ゆえ》に出た言葉だった。 「あたしは、暁子じゃない……あたしは、あたしは復讐するために……」  突然《とつぜん》、 <暁子> が苦しみ始めた。頭を抱《かか》え、何度もその場にうずくまろうとする。 「あたしは、暁子じゃない。だから……あたしを、否定するな!」  彼女の言葉は、手術台で眠《ねむ》る暁子に対して向けられていた。 「どうしたんだ、暁子!」  修司が声をかける。 <暁子> は、今度は修司に向き直って言った。 「あたしを、暁子と呼《よ》ぶな!」  そのまま倒れそうになる。支《ささ》えようと駆けつけた修司の手を、 <暁子> は払った。 「離《はな》れろ、修司! そいつは人間じゃないんだぞ!」  八環が修司に警告を発する。  八環と蔦矢の注意が、 <暁子> と修司に集中した。  その瞬間《しゅんかん》を逃《のが》すことなく、砂川はまた、行動を起こした。今度は、さっきまでとは違う動きで。明らかに分《ぶ》が悪くなったため、脱出用《だっしゅつよう》にと最後まで取っておいた手段《しゅだん》だった。しかしいまは、これが決まれば一気に形勢が逆転すると信じて、彼は動いた。  蔓状《つるじょう》になった右手で、砂川の動きを封《ふう》じていた蔦矢が、異変に気づいた。蔓の張りが少し緩《ゆる》くなったのを感じたのだ。  慌《あわ》てて砂川のほうを見る。が、そこに砂川の姿はなかった。  かわりにそこに、鬼《おに》がいた。  やはり目の細い、身長が頭にある小さな角を足しても、一五〇センチに満たない。砂川という人間の姿をとっていたときよりも小さくなっている。鬼は、手に持っていたメスを使って、腕に絡みついていた——緩く絞《し》めつけられた——蔓を断った。  蔓を切られた反動で、蔦矢がよろける。  この瞬間。小鬼は小袋を投げていた。  袋の砂が、部屋中にばらまかれる。 「ききっ、みんな眠《ねむ》ってしまえ! 最後に笑うのは、私だ!」  室内に降り積もらん勢いで、金色の砂の雨が降り注ごうとした。  しかし、砂かけが起こした起死回生《きしかいせい》の眠りの雨は降らなかった。  部屋の上部に金色の雲を形成すると、そのままつむじを巻きながら、通気孔《つうきこう》へと吸い込まれていった。 「きっ! 馬鹿《ばか》な!」  狼狽《ろうばい》する砂かけの体に、風に舞《ま》った木の葉が無数に押《お》し寄せてくる。  木の葉の乱舞《らんぶ》は、容赦《ようしゃ》なく、砂かけの体を切り刻んでいった。  その様子を、茫然《ぼうぜん》と <暁子> は見つめていた。いまは頭痛がおさまっているのか、苦しんでいる様子はない。 「父さん、父さん……あたしの手伝いがいるんでしょ。ねえ、嘘《うそ》でも……あたしを騙《だま》したままでもいいから、なにか言って。ねえ、父さんっては……」 「ぎぎっ……」  傷だらけになった砂かけが <暁子> に手を伸ばした、ように見えた。  彼はその場に倒れると、ひと山の砂の塊《かたまり》となった。 「父さん!」  駆け寄ろうとした <暁子> だが、再び彼女を激しい頭痛が襲《おそ》い、その場から動くことができなかった。    8 目覚め  苦しいにもかかわらず、 <暁子> は修司が近づくのを許さなかった。 <暁子> は、修司の手を払《はら》っては距離《きょり》を開け、彼に向かって手近にある物を投げつける。  中には注射器のような危険なものも飛んできていたが、修司はそんな <暁子> の拒絶《きょぜつ》にめげることなく手を差し伸べた。  機会的にも見える二人の作業は、もう十分近くも続いていた。  しかし、頭への痛みが増すのか、 <暁子> が苦痛に顔を歪《ゆが》ませる時間が長くなってきているようにも見えた。 「修司、今度はそいつの番だ」  終わりの見えない一進一退に痺《しび》れを切らした八環が告げる。 「そいつの番って、まさか暁子を……」  修司が言葉を濁《にご》したにもかかわらず、八環たちは、あえてどうするのかを言わなかった。  ——すでに、多くの人を傷つけ殺《あや》めている。それを許す訳《わけ》にはいかない……  そのことは、すでに修司が理解していると判断したからだ。 「待ってください。暁子を殺さないでください」  なおも苦しんでいる <暁子> の前に、修司が立ちはだかるように立った。 「そいつはおまえの妹さんじゃない。おまえはそいつに殺されかけたんだぞ。わかってるのか」 「わかってます、けど……」  八環が言わんとしていることも理解できた。  彼ら、人と共存する道を選んだたちにとって、人間に害をなす妖怪が危険なことは重々承知できる。しかし、いま自分の背にいるモノは、自分が生んだもの。自分が責任をとらねばならないものであった。  思うものの、責任の取り方などわかるはずもなかった。それどころか、こうして庇《かば》っているにもかかわらず、後ろにいる <暁子> は苦しみながらも「あたしは、あんたを絶対に許さない」と言い張っているのだ。 「なにか、方法はないんですか! 暁子が……後ろにいる暁子が苦しまないで済む方法はないんですか!」  修司の悲痛な叫《さけ》びに、八環は毅然《きぜん》とした態度で言った。 「一瞬《いっしゅん》で消し去ることが、一番の方法だ」 「そんな、他にあるんでしょ? だって、こいつは動けない暁子の分身なんですよ。暁子そのものなんですよ。このままじゃ、いけないんですか!」 「違《ちが》う! 妹さんじゃないことは、そいつ自身が言ってたじゃないか!」  八環は一向に首を縦に振る気配を見せなかった。 「已《や》むをえん」  そんな言葉が八環の口から聞こえてきた。八環の目を見ると、修司の望まぬひとつの行動をとろうとする意志が、ひしひしと感じられた。  ならば、やるべきことは、ただひとつだけ。  意を決して、修司は言った。 「こいつが生まれたのは、俺《おれ》にも責任があるんでしょ。だったら、俺も殺してくれ!」  そんな修司の言葉に、蔦矢は呆《あき》れていた。  修司にも、自分の言ったことが馬鹿げていることはわかっている。さっきまでの八環の技を見る限り、自分を無視して後ろにいる暁子を攻撃《こうげき》することなんぞ容易《たやす》いはずだ。  ただ、八環は真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しで自分を見つめていた。  試されているのだろうか。緊張に喉《のど》が渇く。  八環の手がゆっくりと動いた。その手は、いつしか鉤爪《かぎづめ》のようになっていた。 「とんだ茶番《ちゃばん》だね」  後ろから、声がした。 「そんなに死にたいなら、あたしがあんたを殺してやるよ!」 <暁子> の手が、台の上に並《なら》んでいた器具に伸びた。ここにもメスがあった。苦しみながらを彼女は計算して、そこまで戻《もど》っていた。 「やめろ! 暁子!」  修司は叫んでいた。  自分が生き延びたいからではなく、八環たちに <暁子> を攻撃させるきっかけを与えたくなかったからだ。  ところが。  メスを掴《つか》みかけた彼女の手は、途中《とちゅう》で擦《す》り抜《ぬ》けてしまい、結果、メスを弾《はじ》いただけの形となった。  小さな凶器《きょうき》が、修司の頬《ほお》をかすめた。細い線状の傷が走り、血が滲《にじ》んだ。 「幽体《ゆうたい》になって逃げる気か」  その異変に気づいた八環と蔦矢が、再《ふたた》び行動に出た。  八環は鉤爪を出したまま突進《とっしん》し、蔦矢は刃《やいば》の葉を飛ばそうとした。  咄嗟《とっさ》に、修司は <暁子> を庇《かば》おうとした。しかし、その体を擦り抜けてしまい、それは適《かな》わない。  突然の修司の行動に、蔦矢は葉刃の軌道《きどう》を逸《そ》らした。八環は修司を気にすることなく突《つ》っこんだが、 <暁子> を前にして再び動きを止めた。 <暁子> は自分の手を見つめていた。  もはや苦しんでいない。  ただ、彼女はひとりで震《ふる》えていた。 「あたし……あれ? なんで? どうしてなの?」 「暁子……」  そんな彼女に向かって修司が声をかけた。 <暁子> は、今度は嫌悪感《けんおかん》に震えた。修司は半透明《はんとうめい》になった自分と重なる位置にいる。 「あんたなんか! あんたなんか!」  握《にぎ》った拳《こぶし》で、修司を連打すべく何度も繰り出す。だが、それはひとつも命中しなかった。すべてが修司の体を擦り抜ける。いや、彼女の拳が修司を捕《とら》えることができないというのが正しかった。 「殺したい……殺したいほど憎《にく》いのに、どうしてそれができないの! なんでなのよ!」  だだをこねる子供のように、彼女はあたることのない拳で修司を叩《たた》き続けた。 「八環さん……彼女、自分の意志で消えようとしてるんじゃないのでは?」  蔦矢が、呟《つぶや》くように言った。  それは八環も感じていたことだった。そしてなによりも、当の本人が、一番自覚していることでもあった。 「あたしが、消える? そんな、まさか!」 <暁子> の姿が、薄《うす》くなりつつあった。  それは、同時に修司も気づいたことだった。  手術台の上で眠《ねむ》ったままだった暁子が、目覚《めざ》めようとしている。  呼吸《こきゅう》が深くなり、こころなしか血色がよくなったようにも見えた。  目を開こうとしている暁子の上に、 <暁子> は飛んだ。消えゆく体は、宙《ちゅう》を飛ぶことを、まだ許している。 「どうしてあたしを否定するの? あたしを生んだのはあなたなのに!」 <暁子> はそう訴《うった》え続けた。  しかし、目覚めようとしている暁子は、まだ、なにも答えない。なにも答えることができない。 「暁子が……自分の生んだ暁子を、否定しようとしてるのか」  修司の憶測《おくそく》を、訊《たず》ねられたわけでもないのに八環が、「そいつは、わからない」と答えた。  蔦矢も横に首を振る。  修司の言葉を、誰《だれ》も説明することはできなかった。正しいのか、それとも正しくないのかを。  らちが明かないと判断してか、 <暁子> は修司のもとに飛んできた。八環と蔦矢が一瞬緊張するが、さっきまでとはどこか雰囲気《ふんいき》の違う彼女に、その気勢を削《そ》がれる。 「お兄《にい》ちゃんはずるい……いつも、ずるいよ!」  きつい口調だった暁子の声が、どこか子供じみたものに変わっている。その調子のまま、彼女が修司に訴《うった》える。 「お兄ちゃんは仕事が忙《いそが》しいって言っててもいつも楽しそうだったじゃない。あたしみたいに、窮屈《きゅうくつ》な思いはしていない。だって、勉強ばかりしてるんじゃないんだもん。お母さん……どうして、あたしに厳しいの。どうしてお兄ちゃんにはそうじゃないの? 働いてることが偉《えら》いことなの? それなら、あたしも……」 「それが暁子にとって、楽な道だと思ったんだ」 「そんなの嘘《うそ》よ!」 「嘘じゃない……でも、そう思われても仕方ない。すまないと思ってる。こんなことになってからじゃ、遅《おそ》いかもしれないけど」 「嘘、嘘、嘘! あたしは騙《だま》されない! 絶対に、殺してやるんだ!」  殺す——  過激《かげき》な <暁子> の言葉が発せられたが、以前のようにその言葉に殺意は感じられない。まるで、子供が口喧嘩《くちげんか》や、冗談《じょうだん》で発したような軽いものにしか聞こえなかった。  修司が八環たちのほうへと向き直った。そして、もう一度さっきから何度も繰り返したことを言った。 「暁子……この可哀《かわい》そうな暁子を救う方法はないんですか? もとの暁子の体に戻す方法とか!」  生《い》き霊《りょう》という考えを、結局、修司は最後まで捨て切れなかった。  その答えを、八環は修司にではなく <暁子> に対して言った。ただ一言で。 「ない」  八環はさらに続ける。 「おまえ……本当は、兄貴やお袋《ふくろ》さんの気持ちがわかってたんだろ? だから、おまえは苦しんでたんじゃないのか? 本当は、家族の気持ちを確かめるために生まれてきたんじゃないのか? 砂川みたいな奴に利用されちまったが、な……」  あくまで、憶測《おくそく》にすぎぬことを、八環は言った。 「そんなこと、あるわけない! あたしは復讐《ふくしゅう》を望んでた!」 <暁子> が、八環の意見を真《ま》っ向《こう》から否定する。しかし、八環は自分の考えをおし続けた。 「でも、ここでははっきりとわかったんだ。しかも、おまえさんがもっとも望んでいた形で、柳瀬修司が応《こた》えちまったんだからな」 「違う!」 <暁子> は叫《さけ》んだ。そして、静かに目を伏《ふ》せた。 「それは、あたしじゃない。そこで眠っている、彼女の意志よ」  一度、手術台の上にいる暁子に目をくれた後、 <暁子> はあきらめたような、そしてどこか悟《さと》ったような顔をしながら、修司へと視線を転じた。 「家族の答えを待ってたのはあたしじゃない。でも、今日まで……取り返しのつかないことを、いっぱいやっちゃったのは、あたしなの。それは彼女の意志じゃないのよ。ごめんなさい……謝ってもすまないのはわかってるけど、でも、もうそれしか言えないの。どうすることもできない。ごめんなさい……」 <暁子> が言葉を詰《つ》まらせた。みんなが続く言葉を待った。誰も催促《さいそく》せず、重くなった彼女の口が開くときを待った。 「あたしが目覚めるから、あたし[#「あたし」に傍点]は存在しちゃいけない。でも、眠ってるあたしは、家族の答えがなんであるのか知らない……」 「暁子……」  消え行こうとする妹の名を、修司は呼《よ》んだ。今度は、その名で告げられたことを修司に否定しなかった。 「どうしよう……眠ってるあたしは、目覚《めざ》めても母さんやお兄ちゃんのことを理解していないままなのよ。それって、あたしよりも不幸じゃない!」  そして、ここまでなんとか我慢《がまん》していた涙《なみだ》が堰《なみだせき》を切った。一度|溢《あふ》れ出したものは、とめどなく流れ落ちてゆく。 「大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  修司が手を差し伸べる。その手は、実体があれば <暁子> の頬《ほお》を触《ふ》れる位置で止まった。 「おまえが暁子の心の内を話してくれた。だから、俺のほうから暁子を理解できるようにするよ。お袋にも、言っておく。だから、大丈夫だよ、暁子」  もう一度、目の前にいる彼女に向かって「暁子」と言った。言いながら、修司の頬を涙が流れた。それは、もはやどうすることもできない、目の前で消えゆこうとしている <暁子> に対してのものだった。 「どうせなら、復讐にこだわったまま消えたほうがよかったかもしれない。それなら、こんなに辛《つら》い別れにならずにすんだのかもしれないのに。ごめんなさい、それと……」  最後に彼女が、なにを言おうとしたのか。それを聞き取ることは、誰にもできなかった。 「すまなかった、暁子……」  目を覚ました暁子への第一声は、修司が消えてしまった <暁子> に、何度も言った言葉だった。  暁子は、目覚めたばかりでまだ視点が定《さだ》まらないせいか、修司を見つめたままぼんやりとしていた。  そんな二人に遠慮《えんりょ》してか、八環は少し離《はな》れた位置にいた。手術室の外の廊下《ろうか》にもたれかかっている。  その横には、教授の姿もあった。砂かけが倒されたいま、今度はちゃんと八環の蹴《け》りで起きたのだ。やはり加減がなかったようで、彼は脇腹《わきばら》を撫《な》でつけている。蔦矢は、修司たちの母、公子のもとにいるはずの他の <うさぎの穴> の仲間のところへ、こちらが終わったことを知らせに行っていた。 「砂川……砂かけって妖怪は倒したみたいですけど、あの妹の姿をしたっていう霊体《れいたい》はどうなったんです」  砂川と対峙《たいじ》して早々に眠ってしまった教授は、ことの成り行きを八環に訊《たず》ねた。 「霊体ねえ……あれは霊体というよりも、妹さんの二重身——ドッペルゲンガーだったんじゃないかと思う」 「ドッペルゲンガー? なんです、それは?」 「心の中で二つの反目しあう精神が、二つの人格を作ることだ。もっとも、彼女の場合、砂かけの妖術がきっかけで、歪《ゆが》んだものができちまったみたいだな。修司の奴《やつ》、生《い》き霊《りょう》ってずっと抜《ぬ》かしてやがったから、ほんとに生き霊みたいなものになっちまったようだが」 「それって、ひとつは <うさぎの穴> で言ってた家族に復讐《ふくしゅう》しようとするものですよね」  教授の問いかけに八環は領《うなず》いた。 「じゃあ、もうひとつは、一体なんなんです?」 「そいつは、たぶん……」  少しもったいぶるように、八環は言った。 「家族に愛されてるのか確かめようとした、妹さん自身の�想《おも》い�が生んだんじゃないか。いや、待てよ……」  八環が考え込む。教授は黙《だま》って八環の言葉を待った。 「砂かけのやつも、臓器とはいえ、暁子を利用することを考えていた。それがあのような形で <暁子> を生むきっかけのひとつになったのかもしれんな」 「砂かけも?」  教授が首を傾《かし》げたが、すぐに起こすと、大きく頷いた。 「でも、ひとつの病室で、それだけの�想い�が集まれば、彼女[#「彼女」に傍点]が生まれてきても不思議《ふしぎ》じゃないですよ」 「そうだな」  教授の言葉に、八環は素直《すなお》に納得《なっとく》した。 「少しばかり、 <暁子> さんがかわいそうな気がしなくもないですが……」、 「でも、彼女は人を殺している……俺たちが許すわけにはいかないからな。消えてくれて、ありがたかったよ」 「本気で言ってるんですか、八環さん」  教授の問い掛《か》けに、八環はなにも答えなかった。  ゆっくりと、修司たちのほうへと目を向ける。見ると、暁子がようやく話せるようになったところだった。 「暁子、わかるか?」  兄の声を聞いた暁子は、ゆっくりと、そして静かな口調で言った。 「ありがとう……」 [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [二面女] 人間の姿:数年ごとに取り替えてきる。 本来の姿:正面からは美女、後頭部に醜い怪物の顔がある。怪物の顔は、鼻が長い腕になっている。 特殊能力:後ろの顔から伸びた腕は、怪力を誇り、象をも締め殺す。 職業:人間の顔にあわせてさまざまな仕事を渡り歩いている。 経歴:男性の幻想の中にある、女性の二面性への固定観念から生まれた。その思いこみの重みに耐えかねて自分の本性を忘れたいと思いながら暮らしてきた。 好きなもの:平穏で目立たない生活。「いかにも……らしい」と褒められること。 弱点:「……らしくない」と、コンプレックスになっている部分を指摘されると過激に反応して逆上してしまう。 [ウィル] 人間の姿:片眼鏡《かためがね》を填《は》めた少年。マントと帽子を纏《まと》う。 本来の姿:人間の姿に同じ。「戦闘モード」によって、左腕と右脚の色、瞳《ひとみ》の様子が変化する。 特殊能力:直視したの能力を解析できる。実在、非実在を問わず、格闘技全般を修得している。切断された身体《からだ》を再結合できる。超高速の水流を刃《やいば》として使う。 職業:なし 経歴:人の努力に無限の可能性を夢見る想いが、漫画の主人公の形を取って生まれた。 好きなもの:戦い、好敵手。 弱点:戦いが緊迫したものになるよう、自分の力をセーブしてしまう。相手を殺すことができない。 [砂川《すながわ》靖雄《やすお》(砂かけ)] 人間の姿:身長約一六〇センチの小柄な男。開いているのかわからないほど目が細い。 本来の姿:頭に一本の角《つの》を持った小鬼《こおに》。いつも砂の入った小袋を提《さ》げている。 特殊能力:小袋の砂をかけることで、生物に眠りをもたらす。砂の量によっては昏睡《こんすい》させることもできる。 職業:三陸会《さんりくかい》病院の外科医。 経歴:�眠くなるのは目に砂をかけられたせいだ�という古来からの伝説から生まれてきた。医師免許を取得後、三陸会病院から声がかかり、勤務することになる。彼はこれまでに、三陸会病院の指示のもと臓器売買による移植をさせられてきた。そのため彼は、名外科医として裏社会では名高い。三陸会は、シャイアーテックス社の息のかかった医療法人。 好きなもの:掌中に落ちた人間。自分の実力を認めてくれる者。 弱点:雨にさらされると動きが鈍くなる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  くすくすくすくすくすくす。  例によって、都会の建物が落とす複雑な影の隙間には、含み笑いがよく似合います。  春もなかばをすぎて、夏の近づく今日このごろ。けれども、闇《やみ》の濃い夜には、いまだぞくりと肌寒い一瞬があります。  どこか傾いた、奇妙な人影とすれ違ってしまった時などは……。  こんばんは。執筆者を代表しまして、友野詳です。  先日、始めて金縛りっぽいものを経験しました。夜中に目覚めると、ぐうっと布団が人がのしかかってきたみたいに重くなりまして、なんかまわりが変に明るくなって、ぼそぼそいう声が聞こえてきたりして。  まあ、あれこれ旅行や打ち合せで遠出が続いて、疲れてたからだと思うんですけど。  ですけど、ね。  さて、今回も、まず冒頭は、あたくし友野の作品。前作のミニ文庫(『まぼろし模型』収録の『虚無に舞う言の葉』)あたりから、ちょっと意図して作風や文体を微妙に変えてきているのですが、いかがでしょう? サイコサスペンスのテイストも意識しつつ (ホントに?)、正統派の正邪対決タイプから、ちょっとはずれた感じを狙《ねら》ってみたのですけど。  続いての清松みゆきの短編も、異色作と呼んでいいかと思います。突如としてあらわれた無敵のスーパーヒーローと、おなじみ <うさぎの穴> の面々が対決。最強の名は、誰《だれ》が手に入れるのか?……てな感じですが、この結末、皆さんは、どんな感想を抱かれたでしょうか。『妖魔百物語妖の巻』(スニーカーG文庫)収録の作品とも、ちょっとからんでます(え? 百物語の続き、魔の巻はどうなったか、ですか? す、すいません、いろいろ大人の事情がありまして、でも、なんとか出せるよう努力はしてるのです……)。  最後にひかえているのが、今回の書き下ろし分。グループSNEの新鋭、西奥隆起の作品です。TRPGのほうもチェックしていただいている読者さんには、西奥隆の名で覚えていていただいているかもしれません。グループSNEきっての鉄道ファンの彼が、そのへんをちょっとまじえつつ、プロットをたてて執筆をはじめた途端にタイムリーになってしまった(そして生々流転の激しいマスコミの世界ではあっという間に風化させられつつある)話題を素材に、感動を求めての一作を仕上げました。西奥は、これからがんがん活躍するはずですので、手厳しい感想など(笑)聞かせていただければ幸いです。  さて、妖魔夜行も、すでにシリーズがはじまって九年目。 <うさぎの穴> のメンバーも、ずいぶんと増えて賑《にぎ》やかになりました。これも、みなさんが応援してくださったおかげです。十年目、二十年目が迎えられますよう、これからもよろしくお願いします。  ところで、妖魔世界のバックボーンとなっている、TRPG『ガープス』の新たな展開がはじまりました。富士見書房さんのほうから、まずは基本のルールブック『ガープス・ベーシック完訳版』が、大判の単行本としてすでに出版されています(……そのはずだ)。続いて『ガープス・ルナル完全版』までは決まっているのですが、『ガープス妖魔夜行完全版』が、はたして出せるかどうかはまだ未定です。もちろん、グループSNEとしては、ぜひぜひ世に出したく思っておりますので、みなさまのご支援をよろしく、よろしくお願いいたします!(これが読まれる頃にはとっくに終わってますが、執筆中の今は、大阪府知事選挙やら統一地方選挙やらの、選挙運動の真っ最中なんですな)  その他にも色々とやりたいこともあれば、もりあげる他メディア展開のしかけも考えておりますので(今はまだ考えてるだけですけど)、どうか一緒に……。  深い闇を、のぞいてみてください。  足をすべらせて、すっぽりと呑《の》みこまれたりしないよう、それだけは、お気をつけて。   一九九九年三月二十六日 [#地付き]友野�やっとガメラ3を見に行ったので、とっととガイアも見にいくぞ�詳 [#改ページ] <初出>  第一話 いつも見られている 友野  詳       「ザ・スニーカー」99年2月号  第二話 敗れざる英雄    清松みゆき       「ザ・スニーカー」98年10月号  第三話 眠り姫は夢を見ない 西奥 隆起                書き下ろし      ブリッジ      清松みゆき [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 眠《ねむ》り姫《ひめ》は夢《ゆめ》を見《み》ない  平成十一年五月一日 初版発行  著者——友野《ともの》詳《しょう》・清松《きよまつ》みゆき・西奥《にしおく》隆起《りゅうき》